気付けば、そこは知らない天井。
そんなフレーズが出てくる自分に呆れながら、ゆっくりと起き上がる。
掌を握ったり開いたりしながら、少しずつ眠気を覚ます。
周りを見渡すと、ここが白い部屋だと、おぼろげに分かる。
視界がはっきりしないのは、バイザーがないからだろう。
横に手を伸ばすと、棚に置いてあったバイザーに触れる。

「……」

視界がはっきりしたことで、更なる現状把握を始める。
白い壁と、漂う薬品の匂いから判断してここは恐らく病室だろう。
だがどこの病室だろうか?
ネルガルの月基地ならばよいが、このような部屋は見たことがない。
自分が今まで入ったことのない病室である可能性もあるが、作りがずいぶんと違う。
もちろんユーチャリスの病室でもない。

(捕まったか?)

だがその割りには拘束もないし、見張りの気配もない。

(ラピス、ラピス……、駄目か)

リンクは切れていた。だが落胆はない。
ホシノ・ルリのナデシコCが事実上火星の後継者を壊滅させてから、ラピスとのリンクは少しずつ弱めていた。
いきなり切ればラピスの精神の安定に関わるため徐々に弱めていたが、
そのため最近では距離が遠くなるとリンクが切れてしまうこともままあった。
しかし今回はそれが裏目に出たようだ。
嘆息し、とりあえず誰かを呼ぼうと思う。
これだけ身体を自由にされているのだから、少なくとも自分の正体は分かっていないのだろう。
なら少なくとも今は安全だということだ。
それに今自分が着ているのは病院の患者用の服である。
黒いあのコートでなければ落ち着かないというわけではないが、あの中には色々と大事な物が入っている。
特に少しだけ収納しているCCは、絶対に無くしてはならないものだ。

ナースコールを握ろうとしたとき、丁度見回りだったのか、ナースの一人がこちらを見て、

「あっ、先生、起きましたよ!」

そう叫ぶとまた姿を消した。
騒がしいナースだと思う。
だが手間が省けたのも事実。

テンカワ・アキトは、ベッドで寝るのは久しぶりだと思いながらもう一度横たわった。





「まず聞こう。君の名は?」

「……アキトだ」

ナースが連れてきた初老の医師は軽く自己紹介するとそう尋ねて来た。

「ふむ、苗字は?」

「……忘れたな。ただのアキトだ」

「ふむ」

テンカワという名は意外と売れている。
アキトの両親はボソンジャンプの研究者だし、自分は元ナデシコクルーの現テロリストだ。
全て軍関係者ぐらいしか知らないことだが、自分の敵は軍そのものでもある。
言わないで済むならばそれでいい。

「まあいい、名前などどうでもいいことだ。
 では君はなぜあんなところに倒れていたのだ?
 はっきり言うがあそこは昼寝には向かない場所だが」

なぜ「そこ」にいたか。
いや、そもそも「そこ」とはどこか。
その前になぜ自分は倒れていたのか?

思い出そうとして……思い出せない自分に気付いて愕然とする。

ラピスを伴い、火星の後継者と戦っていた。
それは覚えている。
そして、それからどうなった?
負けた覚えはない。
かといって悠々と帰還した覚えもない。

分からない。

「分からん」

そう正直に言うと、医師はくるくるとペンを回しながらこちらを見る。

「ふむ、記憶障害と……」

そしてカルテらしきもの本当にそう書き込む。

「……いいのか、そんな簡単で。もし俺が犯罪者か何かだとしたらどうする?」

「ふむ。質問に答えようか。まず私はあまり真面目な医師ではない。
 他のまともな医師は皆宇宙へと上がっていってしまった。
 そもそも脳関係や心理学などは私の領域ではない。
 次に、仮に君が犯罪者だとしても、この船には軍人が大量にいる。
 まあ、私は君に殺されるかもしれんが、君はお縄だろうな」

淡々と話す医師は、意外と度胸が据わっている。

軍人が居る。
すこし状況はまずいということに気付く。
とはいえ、やはり自分の正体はバレていないだろうと少し楽観もする。

医師はふうと溜め息をつき、

「それに君が何者か知らんが、今オーブで我が物顔をしている奴らよりはマシだろう」

知らない単語。
オーブ。

「オーブとは、なんだ?
 地名か?」

すると医師はさすがに驚いたのか、目を丸くする。

「おいおい、オーブを知らないって、一体君はどこからこの船に乗ったと思っているのかね。
 ……ああ、そうか、やはり記憶障害か。
 しかし確かあれは常識は覚えているのでは……」

最初は物静かな男だと思っていたが、意外とよく喋っている。

「ふむ、まあ、君がどこに居たかは彼女に聞いた方がよいかもしれんな。
 おい、君、アスカ君を呼んで来たまえ」

「はい」

ナースは小走りに部屋を出て行く。

「アスカとは?」

「君を発見した子だ。礼を言うといい。
 ただ、少し、不幸があってな」

「不幸?」

「ああ、連合との戦闘に巻き込まれて、家族を全員亡くしてしまったらしい。
 酷いことだ。まだ12、3だろうに」

「戦争をしているのか、この国は?
 しかも連合と?」

なぜ連合と戦争する国があるのか。
少なくともつい最近までは火星の後継者との戦争で連合は忙しく、地球内で戦争する余裕など無かったとアキトは思う。

「ふむ、世界情勢まで忘れているのか?
 まさかプラントやコーディネーターまで知らないとか言い出さないだろうな」

当然、そんな単語も知らない。
少しずつアキトの中で不安が生まれてくる。
先までは、自分の正体が知られてないのならいつでも脱出できる自信があった。
だが話を聞けば聞くほど自分の置かれている状況が分らない。

どうもこれまでの単語は常識らしい。
ならば自分がかなりの記憶障害と思われている今しか、聞くことは出来ないだろう。

「すまないが、どうも忘れてしまっているらしい。
 教えてくれると助かる」

常に仏頂面だった医師の顔が、さすがに引きつった。



「失礼、トダカです」

「ああ、あんたか。どうした。
 呼んだのはアスカ君なのだが」

ひとしきりこの世界の常識を医師が喋りきった直後に、少し背が高めの軍人らしき男が現われた。
二人はアキトに話していることが聞こえないよう距離を取って、内緒話か何かをしている。

アキトはその間に混乱している頭を整理しようとする。

この状況は何か。
かいつまんで教えてもらった世界の情報は、あまりにも自分の知っているそれとかけ離れている。
冗談か何かかと思ったが、この医師は冗談を言うタイプではない。
結論として浮かぶのは平行世界や異世界など、SFちっくな単語ばかりだ。
もっともアキトの世界でも、ボソンジャンプなどどう見てもSFでしかありえないような現象があるため、少しだけ納得できる。

恐らく、この世界に来たのはボソンジャンプのせいだろう。
記憶にはないが、火星の後継者との戦いの最中になんらかの要因でボソンジャンプを決行し、なんらかの事故でこの世界に来た。
ありえないことではない。
ボソンジャンプはただでさえ分らないことばかりであるし、タイムマシン的な要素もある。
アキトはとりあえず、そう説明づけた。
アキト自身ボソンジャンプについて詳しいことは知らないし、理論付けは説明おばさんの仕事である。

これからどうするか、それも考えなければいけないが、今はまずすることがある。

助けられたのなら、礼を言わなければならない。
それは人として当然のこと。
例え復讐鬼に身を堕としていても。

「二人とも、すまないが」

 医師とトダカの二人が、こちらを向く。

「俺を助けてくれたマユ・アスカという娘はどこに?
 礼を言いたいのだが」

「ああ、すまない。彼女は少し、ね。
 そうだ。自己紹介がまだだったな、私はオーブ海軍、トダカ一佐だ」

軍服らしきものを着ていたから警戒はしていたが、やはり軍人か、と少し警戒を強くする。

「アキト、だ」

「アキト君、か。アスカ君のことだが……。
 彼女は今、少し心を閉ざしていてね。
 家族が目の前で亡くなったのだから当たり前といえば当たり前なのだが……」

「そうか」

ならばこの場所に居ることに意味はない。
アキトは立ち上がり、掛けてあった服を着る。
幸い中はまだ見られてはいないようだ。
身体が少し悲鳴を上げるが、それも重大なものではない。

「アキト君、君はまだ身体が」

トダカの言葉を無視し、アキトは部屋から出て行く。
別に無視されたことに憤るほど小さい人間ではない。
とはいえ、軽く溜め息をつく。

「……で、彼はどうなのです、実際の所」

「ふむ、彼か。
 変な男ではあるな。
 記憶障害というのも全てではないが真実でもあるまい。
 私が話しているときの姿、あれは知らない知識を吸収しているというよりも、
 自分の知識と照らし合わせて戸惑っている感じがあった」

「敵……連合やプラントのスパイではないと?」

「私ならもっと効率のよい潜入をするがな。
 大体あの姿でスパイをする人間がいるか?
 第一に、こんな難民船みたいな船にわざわざ潜入する意味があるか?」

「それもそうですな。
 いや、すみません。仕事柄、人を疑う癖がついてしまっているもので。
 それにしても……」

「ふむ、まだ何か気になることがあるのかね?」

「いえ、彼はアスカ君の居場所を知ってるのか、と思いまして」

「あ」


アキトがアスカという娘の顔も居場所も分らないことに気付いたのは、部屋を出て五分ほど歩いてからだった。
仕方なく人に聞こうと思い、通りがかる何人かに尋ねるが、ほとんどが目を合わさないように避けていく。

「この服は失敗だったか……」

復讐者として生きて数年。
ファッションとは無関係の世界にあったためこのような黒尽くめでも気にしなかったが、これからは少し考えなければならないかと思う。

それでもナースを捕まえて尋ねると、快く場所を教えてくれた。
彼女たちはさすがプロであり、アキトの服装にも動じることはなかった。

ナースに礼を言い、教えてもらった場所へと向かう。

彼女は、居た。
他の多くの難民者が家族と話していた中、彼女はただ一人うつろな目で座り込んでいる。

長い栗色の髪に整った顔。
教えてもらった情報と一致する。
彼女がマユ・アスカだろう。

「君が、マユ・アスカか?」

同じように座り込み、目線を合わせようとする。
これはかつて、ルリやラピスとコンタクトを取る時に無意識に使っていた方法である。
子供は、上から見られることを嫌がる。

「……」

だがマユは一度もこちらを見ようとはしない。

「まずは、助けてくれた礼を言う。ありがとう
 君が居なかったら俺は死んでいたかもしれない」

「……!」

その言葉に、ぴくりと震え、ゆったりとこちらを見る。

その目に浮かんでいた虚無は消え、やがて色が宿っていく。
この目の色を自分は知っている。

憎しみだ。
かつての自分だ。

ばっと、少女とは思えぬ機敏さでアキトに組み付き、押し倒す。

「あな、たが……。あなたさえ、あそこにいなけ、れば……」

低い、ガラガラした声だった。
食べ物どころか、碌に水分も取ってないのだろう。
だがその目の色は深く力強い。
特徴的な赤い目は、まさしく少女の激情を現しているのかもしれない。

「父さん、は、かあ、さんは、」

「ぐっ……」

首を絞められる。
その力は少女のものとは思えない。
これがコーディネーターか、と少し背筋が冷たくなる。

「おにい、ちゃんは……」

詳しいことは分らない。
だが、きっと、自分を助けているせいで彼女の家族たちは死んでしまったのだろうと推察する。

(俺のせいか……)

ならば、この少女は自分を殺す理由も資格もある。

「……おれ、が、憎い……か……?」

なんとか絞り出した言葉に、少女の瞳が揺れる。
マユは一呼吸置くと、先ほどよりも弱々しい声で

「……にく、い、わ」

アキトはすぐに理解する。

これは八つ当たりだと。

この少女はきっと本来は優しい、聡明な子だ。
平和に生きてきたに違いない。
家族を失うことでこれほどの憎しみを出せるということは、それほど彼等を愛していたのだろう。
だから、初めて産まれた憎しみという感情に戸惑い、噴出先が分らなかった。
自分を殺すことで憎しみが晴れるなら、それもいいかもしれない。
八つ当たりだろうが何だろうが、少女はアキトを殺す資格があり、アキト自身もそれを許容している。
だがこの少女はきっと、その後、後悔する。

近くで戦闘が起こっているのにも関わらず、自分を助けに来てくれた子だ。

本質的に、優しい子なのだ。

だからアキトは、今殺されるわけにはいかない。
少なくともこの子にだけは。

少し緩んだ手を優しく指一本ずつ解き、自分の上からどかせる。
両者が落ち着いた頃合を見計らって、そしてもう一度尋ねる。

「俺が憎いか?」

マユは俯いたまま、黙り込む。

アキトも黙り込み、不思議な沈黙が辺りを包む。

「……ち、がう」

聞き取れないぐらいの小さな声で、呟いた。

「憎い、けど、それは、あなた、じゃ、なくて」

「何が、憎いんだ?」

出来る限りの優しい声を、アキトは出した。
同時に、こんな声がまだ自分は出せるのだと驚く。
こんな声を出したのは、あの墓地でかつての養女と別れを告げたとき以来か。

「あいつらが、憎い。
 当たり前の顔でオーブに攻め込んだあいつらが憎い。
 オーブを守れなかったあいつらが憎い。
 みんなを殺したあいつらが憎い」

ぽろぽろと流れ出る涙。
アキトは無意識に、その涙を拭いた。

「そして勝手なことして、みんなを死なせた自分が憎い」

この子は純粋すぎる――
きっと、心が憎しみについていけてない。
溢れ出しそうな憎しみと罪悪感を抱えて、それでも吐き出す場所がないのだ。

オーブを攻め込んだ奴らは強大過ぎて、
オーブを守れなかった者たちはソラにいて、
直接家族を奪ったMSたちはどこに居るかすら分らない。
そしてその性格上、ただ倒れていただけのアキトを心からに憎むことも出来ない。

吐き出せない憎しみが、自分の心を蝕んでいく。
パンクしそうな心が悲鳴を上げている。

まるで、かつての自分自身。

「お……」

言いかけて、止める。
自分にこの子に何か言う資格があるのだろうかと。
自分がその場所にいなければ、彼女の家族は死ななかったかもしれないと。

だけど、

だからこそ、

それでも、言わなければならないこともあるのかもしれない。

「俺は、生きてる」

マユの顔が、ピクンと上がる。

「俺は、生きてる。君が助けた。
 君が発見してくれなかったら、俺はきっと死んでた。
 君が助けてくれた。
 君は命を救った。
 だから……


 ありがとう」

少女は、限界だった。

一際大きい涙の粒が瞳に浮かび、それを拭かないままに勢いよく、アキトに抱きついた。
父も兄も居なくなって、頼れる大きな身体が恋しかったのかもしれない。
泣きじゃくる少女に、ぎこちなく、かつて誰かにそうしたように頭を撫でる。
彼女はきっと、誰かに肯定して欲しかったのだ。
自分のせいで両親を死なせてしまったのではないかという考えに囚われて。
それは違うと教えなければならない。 だけどこの少女は聡明だから、下手な慰めは逆効果。
だからアキトは、ただ事実だけを言った。

殺されかけても言いたかった言葉を。
自分はあなたに感謝していると。

ありがとう、と。






「私、プラントに行く」

「そうか」

あの日、オーブが侵攻されてから数ヶ月、激動のままに戦争は進み、そして急激に終わった。
終戦したわけではないだろう。

「力を手に入れる。そしてあんな風に力でどうこうしようとする奴らから、力のない人を守りたい」

故に、いつかまた、きっと戦争は起こる。
その時力無き者ではいたくない。

「そうか」

「そして、あいつらが、もしも生きてたら……」

「生きてたら?」

「私が、倒す」

「……そうか」

「……アキトさんは、トダカさんたちみたいに反対しないんだね」

それは、マユにとって不思議なことだった。
他の大人たちは、君は幸せに暮らせ、復讐なんて考えるな、と言う。

「復讐は何も生まない、とでも言われたか?」

「……」

「かもしれない。だが、復讐を終えなければ進めない者だっている」

その点、アキトは他の大人と違った。
普通なら子供の戯言として一蹴されそうな言葉を、アキトはちゃんと聞いて、理解しようとしてくれる。

「私は、きっと進めないよ。
 家族を殺されて、お兄ちゃんを殺されて、憎まないなんて出来ない。
 許すなんて、もっと出来ない。
 そして、皆を忘れて前に進むなんて、私には絶対に出来ないよ」

すんすんとすすり泣く声。
少女は、どこまで行っても少女でしかない。
アキトは、大人よりしっかりして見えて、実は脆かったかつての養女を思い出す。

「誰かを許すことは大切なことだ。
 人はそれが出来るから人であるとも言える。
 俺は、それがあるから人は優しくなれるのだとも思う。
 だが、出来ない者もいる。
 憎まずにはいられないこともある。
 許せない罪もある」

マユはじっと、アキトの言葉を聞いている。
まるで一字一句逃したくないかのように。

「そして復讐せずにはいられない想いだって、ある。
 君がそうしたいのなら、そうすればいい。
 誰にもそれを咎める権利はない」

「……うん」

マユは思う。

この人は、何なのだろうと。
彼の言葉は、自分の心にぴたりと当てはまる。
彼は、自分と同じなのかもしれない。

「俺も、行くか」

「え?」

「プラントに」


老練した復讐者が、若き復讐者と出会う。
若き復讐者は力をつけるために、
老練した復讐者は、恩を返すため、そしていつか帰るべき場所へ帰るために、ソラへと上がる。

それもまた、一つの運命。




あとがきー

アキト×マユとかないですよー。
基本的にクロス同士のカップリングとか苦手なので。
少し気になるのが、トダカさんがこの当時階級が何だったのか。
劇中じゃ一佐だったけど、過去ではいくつだったんだろう。
とりあえず一佐にしましたけど、もし違ってる、という方は教えてください。
ではでは。