鏡の前には少女が一人。
むにー。
びよーん。
少女は子供特有のその柔らかそうな頬や目元を、そんな音が聞こえそうな程引いたり伸ばしたり。
むににー。
びよよん。
何度かそれを繰り返し、でも少女は納得いかないご様子で。
鏡に映るのは、少女のの手によって奇怪に変形した、それでもなお愛らしい顔。
「困りました……。今日なのに……」
頬から手を離し、その少女、ホシノ・ルリはぽつりと呟いた。
簡単な笑顔の作り方
テンカワ・アキトの誕生日が近い。
ルリがそれを知ったのはつい最近のことだ。
「誕生日って、お祝いよね」
それは昔は無かった思考、だけど今はすぐにそう思える。
そう思わせてくれるようになれたのは、元ナデシコ艦長のミスマル・ユリカを始めとした多くの仲間であり家族である人たち。
あのナデシコで過ごした一年は、それまでのルリを大きく変えてくれた。
それはきっと良いことなのだろう。
今、共に家族として暮らしているアキトやユリカはその変化をとても喜んでくれている。
誰かが、それも大切な人が喜んでくれるなら、それは良いことだ。
「大切な人……」
呟いた言葉と共に浮かんだ映像を、すぐに振り払う。
その映像は自分をとても優しい目で見つめているアキトの姿だった。
少し火照った顔を落ち着かせ、最初の思考に戻る。
誕生日はお祝い。
それもいつも世話になっているアキトだ。
日頃の感謝も込めてなにかプレゼントをするべきだろう。
しかしルリには誰かに贈り物をしたことなどない。
ナデシコに乗っていた頃は戦時中ということもあってあまりそういう機会はなかったし、その前はそういう思考そのものがなかった。
どんな物を贈れば良いのか。
分からない。
なら訊こう。
ルリは意外と行動が早い。
軽く着替えて外に出ると、ナデシコで数少ない常識人であり、姉のような存在の所へと向かった。
「で、私ってわけ?」
「はい。ミナトさんなら男性に贈り物をしたこともあると思いましたので」
ミナトが出してくれた麦茶を一口飲み、ルリは話を切り出した。
実はミナトはあまり男に贈り物をしたことはない。
基本的に彼女は貰う側なのだ。
だけどこの可愛い妹のような、娘のような少女が自分を頼りにしてくれるのだ。
しかも男性のことで。
相手があの鈍感男だということが少し気がかりだが、それでもどうにか力になってやりたいと思う。
「うーん」
難しいところだ。
成人男性に贈るならネクタイなどが無難だが、屋台の主人がそんなものを着ける機会があるだろうか。
せいぜい飲み会の席で頭に巻くぐらいしか思いつかない。
女の子からの贈り物として考えるならやはり手作りのものだろう。
だが手編みのセーターやマフラーなど今からルリが作れるとは思えないし、時期がずれている。
手作りのケーキなども良いかもしれないが、それを作る技術は例えホウメイさんでもこの短期間で教えることは難しいだろう。
「ううーん……」
「何か無いでしょうか?」
心配そうなルリの顔を見る。
この子も随分と感情を見せるようになったと思う。
決して口には出さないが、初めは本当に人形のように思っていたのだ。
それが今はこうも多様な感情を見せてくれる。
そうなってくれたのは自分や多くのナデシコクルーのお陰だろう。
そして一番の原因はきっと話題の中心のアキトだ。
彼の良くも悪くも感情のままに行動している様は、きっとルリに多大な影響を与えたはずだ。
そうでなくともいつも何かとルリの世話を焼いていたのもアキトだ。
きっとルリ自身もそれが分かっている。
だからこそこのような相談をしてきたのだろう。
ルリは例え一緒に住んでいても、親愛の情も何も無い人に贈り物をする性格ではない。
「そうねえ、アキト君が一番喜ぶことって言ったら……」
アキトが色々とルリの世話をしていたのは、ルリにどうして欲しかったからか?
ルリがどうなって欲しかったからか?
「そうだ、一つだけあるわよ。ルリルリにしか出来なくて、アキト君がとっても喜ぶこと」
むにー。
むにょむにょ。
鏡の前で頬をこねても、やっぱり上手く行かない。
「今の私なら簡単だって言ってたけど……やっぱり難しいです」
ルリはミナトが言ったことを思い出す。
『アキト君が仕事から帰った時に、笑顔を見せてあげなさい』
それがアキトへの最大のプレゼントになると。
ルリはそれを聞いて正直半信半疑だったが、信頼するミナトの言うことなのでとりあえずそれでいこうと思った。
だが、そこでルリは重大な事実に気付いた。
「私、笑顔の作り方って知りません……」
実際にはルリはナデシコに乗っていた頃が時々ではあるが微笑みを作っていたりしている。
だがそれはあくまで無意識のことであり、ルリ自身の中では未だ自分は無表情な、笑えない少女なのだ。
「今の私なら簡単だって言ってたけど……やっぱり無理です……」
もちろんルリも最初から諦めていたわけではなく、何度か今のように練習したりもした。
だが出来上がるの気味の悪い引きつった顔(ルリ視点)だけだった。
誕生日当日になっても一向に成功しない。
それどころかもうすぐアキトは屋台の仕事から帰ってきてしまう。
ミナトの作戦ではその時に笑顔でおめでとうというつもりだったのだ。
「笑顔……。笑顔って皆どうやって作ってるんでしょう?」
ナデシコの皆は笑顔が多かった。
それが例え戦争という現実を忘れるためだったとしても、その笑顔はきっと本物だ。
色々な人の笑顔を、ルリは思い出してみた。
ナデシコ副長だったジュン。
彼は笑顔というより苦笑が多かった印象がある。
だけどユリカの我がままを聞いている時の苦笑は、とても優しそうだった。
様々な相談にも乗ってもらったミナト。
彼女の笑顔は今は無きシラトリ・ツクモの側にいる時が一番美しかった。
いつもむっつりでルリと無表情さではどっこいどっこいのゴート。
想いは叶わなかったけど、ミナトに見せていた、よく観察しなければ分からない程度の笑顔は暖かみがあった。
ナデシコ全員の胃袋を受け持っていたホウメイ。
皆が彼女の料理を食べて旨い旨いと言った時、とても嬉しそうに笑みを浮かべていた。
そして笑顔のバーゲンセールと言っていいほど、思い浮かべるといつも笑顔ばっかりなユリカ。
彼女の振りまく笑顔は伝染して、艦を丸ごと笑顔にするようだった。
火星の遺跡でアキトが初めてユリカに好きだと言った時に浮かべた笑顔は、ただただ綺麗で、あれはもう無敵だった。
ちくりと小さな胸が痛む。
だけどそれは今は気にしないことにする。
他にも色々な人の笑顔。
それは本当に様々で。
だけど共通していることがある。
「自分以外の誰かを想う時に、笑顔になれるのかな?」
そう言って思い出すのは、アキトの笑顔。
中々心を開かない、それどころか冷たく対応する自分にも、いつだって笑顔で接してくれた。
その笑顔にはアキトの暖かい想いがあって、だからルリの凍った心は優しく溶けたのだ。
「誰かを想う。私は誰を想う?」
アキトさん。
自分に感情をくれた人。
自分に想いをくれた人。
自分に家族をくれた人。
「アキトさんはどうして私に笑顔で接してくれたの?」
それは自分に笑って欲しかったから。
笑顔になって欲しかったから。
幸せになって欲しかったから。
笑顔は一人では出来ない。
自分がいて、大切な誰かがいて、その人を想う時、きっと笑顔が生まれる。
鏡の前で練習してもできるはずがないのだ。
そう確信した時、ルリは腹をくくった。
開き直ったとも言える。
根が真面目なアキトは、屋台が終わると時間通りにまっすぐ家へと帰ってくる。
今まで通りならもう後数分で帰ってくるはずだった。
自分以外誰も居ない静まった部屋で、とくんとくんと胸が鼓動する。
どきどきする。
それは半分は緊張で、もう半分はきっと違うどきどき。
がちゃりと、扉が開く。
「ただいま、ルリちゃん」
今まで自分に向けてくれた笑顔が扉から覗く。
「ルリちゃん、たっだいまー!」
自分の知る中でもっとも綺麗な、最強の笑顔がその後ろから続く。
「おかえりなさい」
ルリは今まで貰い続けてきた想いを少しでも返すように。
そして自分の想いを乗せるように。
「誕生おめでとうございます、アキトさん」
意識は何もしなかった。
ただただ自分の想いのままに顔が形作られる。
きっとそれを人は笑顔と言うのだろうと、アキトの更に深めた笑みを見ながらルリは心の片隅で想った。
だけど、その笑顔は失われる。
彼女から全てを奪ったその爆発は、笑顔すらも奪っていったから。
彼女があの時の笑顔を取り戻すのは、全てに決着が着いた時。
戦いにも、自分の心にも、全ての決着が着いた時。
「あの人は、大切な人だから」
あの時あの場所にあった、あの想いのままに。
きっと今の自分は笑顔だと、ルリは想った。
あとがきー
初めまして、ai改めAIです。他所で以前HNが被ったので変えましたー。
最近管理人さんも天城さんも色々急がしいようなので、応援する意味でもSS書いてみました。
普段は感想しか書いてないんですけどね。
タグとあまり詳しくないので上手く改行できてるか少し心配ですけど、こんなのでよかったら時々短編でも書こうかと思います。
それでは。
管理人の感想。
こういった形では初めまして。投稿、ご苦労様です。
時間でいうと、アニメ最終回後、劇場版前の中間あたりでしょうか。
いやいや、高クオリティです。
俺もこういった短編書きたいなぁ…。
本編の感想。
くっ…、こういった話は心に響くぜ…。
人間何かしら苦手なところもあるわけで。それを克服しようともがいてこそ結果がどうであれ充実感があります。
こんな感想しか書けない自分ですが、文章では表せない思いを持てる作品だと思います。
では、また投稿の際会いましょう。