体は弱ってはいるが、弱音は言ってられない。少なくとも今の此処は安息の地ではなくなっている。
早く逃げなければならない。別に死ぬ事が嫌な訳ではないが、死体を弄られる事だけは許されなかったし、何よりラピスが心配であった。
やけに甲高く聞こえる警報を背に、アキトは通路を駆けて行った。
事が起きたのは十数分前。ネルガル月支部の所長であるエリナが社長以下重役に呼び出され本社に出向いているところを襲われた。
敵の規模は不明。だが、どこの組織かは大凡予想はされる。火星の後継者残党の一派だろう。
火星の後継者はトップである草壁が投降する事で事実上は崩壊した。だがそれでも全員逮捕に繋がる訳でもない。残された者は逃げて逃げて再起のときを待っているのだ。
しかし指導者である草壁が消えたのは手痛いダメージらしく、火星の後継者は次期指導者を決めることで揉め、次第に瓦解。幾らかの派閥ができ、個別に行動を取るようになる。
それにしても解せない事がある。どうやってこの隠された月ドックの在処を掴んだのか? 指導者もいない、残党軍と呼べるかどうかすら怪しい集団に、それだけの情報を掴む方法など限られてくる。どうやら内通者がいたらしい。隠されていた月ドックに侵入者が入って来るという事は、そういう事だ。
敵はまだ月ドックの最奥の通路までは来てないらしく、難なくアキトはラピスのいる部屋に着いた。
通路の壁の前に立ち、壁の下部を荒っぽく叩く。と、同時に壁の一部がスライドし、キーロックを操作する基部が迫り出した。アキトはそのキーロックの暗号を忙しなく押していき、16桁打ったところで確認ボタンを押す。すると今度は指紋に声帯暗証を済ませる。今ばかりはこの厳重さと慎重さにアキトは苛立ちを覚えた。
最後にカードをスリットに差し込み、全ての手続きを済ませると、なんでもない普通の壁がスライドし暗い空間が顔を出した。その厳重な隠し部屋には家具らしい家具は何もなく、ベッドと棚があるだけだ。そんな部屋の主であるラピスがベッドに腰掛け、入口を、アキトをじっと見ていた。
「ラピス!!」
アキトは叫び、ラピスを抱きかかえた。
「逃げるぞ!! しっかり摑まってろ!」
言うが早いか動くのが早いか、アキトは手にCCを持ってイメージする。
また、血が滴り落ちる。しかし今度は濁った赤黒い血ではない、もっと綺麗な鮮やかな赤だ。
後ろには何時の間にか敵兵がいて、こちらに銃を向けている。
撃たれた。衝撃は二発。肩口から脊髄にかけて、鈍い痛みが染み渡る。事実、銃弾が肩を貫通する程の銃撃であった。もう一発は背中に当たったが、幸い防弾防刃外套を着ていたので致命傷にはなりえない。
アキトはラピスが撃たれないように胸に抱いて屈み込み、イメージを強くする。――足を撃たれた。
思い描く景色はユーチャリスのブリッジ。――背中に軽い衝撃。
ラピスの短い悲鳴が聞こえるが、頭に入れない。――発砲音が増え、衝撃がさらに増える。また足を撃たれた。
ディストーションフィールドを展開する。CCが輝き、不思議な光がアキトとラピスを包みジャンプフィールドが展開される。あとは一言、紡ぐだけ。――衝撃はまだ来るが、幾らかマシにはなった。
「ジャンプ」
呟きと同時に淡い光が残った。光の下には赤い血が広がり、部屋の中は硝煙の臭いが立ち込めていた。
ユーチャリスのブリッジに光が集まり、徐々に人の形を形成していく。全ての工程が終わったのか、光は弾かれ、そこにはアキトと彼に抱かれたラピスがいた。
アキトはラピスを放すとオモイカネダッシュに周りの状況を尋ねる。主に月の状態。しばらくしてからモニターに映し出された。
最悪だった。格納庫に敵の手はまだない。が、その外は敵の艦隊が広がっていた。火星の後継者の派閥の一派などと言う数ではない。きっと全部がこの襲撃に参加している。
だと言うのに、地球連合の姿が見られない。考えられる要素は一つ。
「な……! 地球連合はネルガルを潰す気か!?」
たかだか死に掛けのテロリスト一人の為に民間企業を潰す連合のやり方に、アキトは少なからず驚愕した。もし今の状態でユーチャリスやブラックサレナが表に出れば、ここぞとばかりにネルガルは他企業に叩かれるだろう。
驚愕が苛立ちに変わる頃、アキトに異変が起きた。突然前屈みになり、床に手を着け吐血しだした。あの赤黒い血だ。
「ゲボ、オエェ……。ガハ、ガハ、カハ……。クソ、また発作……」
吐いて吐いて吐き続け、最後に、鈍く光る血の塊を吐いた。血液に混ざったナノマシンだ。
アキトの体内には過去の人体実験で用途も種類も一切不明のナノマシンが多種にわたって侵食している。今もそうだ。そのナノマシンによる反発運動により発作が起こり、本来の人体では起こりえない激痛に襲われる。
しかし痛みも永遠ではない。次第に痛みは薄れ、呼吸も落ち着きを取り戻してきた。片手を床に着けたまま、空いた手で口を拭う。
「ダッシュ。ユーチャリスがドックから出て逃げ切れる可能性はあるか?」
『可能は可能ですが、万に一つもありません。出ても艦隊に叩かれるだけです。マスター、ボソンジャンプによる他宙域への脱出を推奨します』
オモイカネダッシュは万に一つもないと言うが、実際はそうでもない。アキトがブラックサレナに乗って出れば多大な損害は免れないだろうがそれでも確立はグンと上がる。しかしオモイカネダッシュはその可能性を言わない。アキトを想っての事なのだ。
しかし、オモイカネダッシュの提案は不可能のものだった。今のアキトに、戦艦を飛ばすだけの体力は残されてはいない。例え飛ばせても制御はできないだろう。
あらゆる可能性を求める、ラピスを助ける為の方法を。しかし、一向に光が見えない。
「…………」
アキトは震えていた。できる事なら、できる事ならば選択したくなかった方法。それは、ユーチャリスを捨てる事。
もしユーチャリスがなければ、アキトのいなくなったラピスはどうなるだろう。
「ネルガルの本社に、アカツキに繋がるか?」
「……ダメ、今は重役会議に出てる」
恐らく社長派が、テロリストを匿ったアカツキを責め立てているのだろう。さして大きく対立しなかった社長派がここぞとばかりに会議を開く。どうやら内通者はネルガルが用意してた茶番らしい。
ネルガルに逃げ込む事は難しくなった。最悪だ。彼らには逃げ場なんてない。
「ダッシュ。俺とラピスがサレナでボソンジャンプする。悪いが、お前を連れて行くことはできない。ジャンプアウトを確認した後、ユーチャリスを自爆させろ」
言うとアキトはラピスを引き連れサレナの下へと向かう。ラピスが愚図る事を予想していたアキトだが、さして抵抗は見られない。 しばらく狭い通路を歩いた。
「ラピス」
アキトが話しかける。すると、今まで反応の薄かったラピスが一瞬震えた。
「もう、ダッシュとは会えない。ダッシュとは話せない」
うん、と、ラピスは小さく答える。か細くてか細くて消え入りそうな程、聞き取り辛い返答だった。
アキトはそれ以上何も言わず、通路の床を踏みしめて行った。
狭い空間にアキトとラピスが二人でいた。ラピスがアキトの胸に抱かれている形。ブラックサレナのコクピットは一人用の為、必然的に狭く感じる。ふと、アキトはナデシコ時代にもこんな風に二人でいたことを思い出す。が、最早遠い記憶。それは思い出以外の何物でもなかった。
コクピットのIFSコネクタに手を置く。するとブラックサレナの目が灯り、起動した。
その時、強い振動がドック内に響いた。どうやら攻撃が始まったらしい。ダッシュが危険をウィンドウで表すがそんなに大事でもない。まだ猶予はある。
さて、次は逃げる場所を考えなくてはならない。もしジャンプ地点に敵がいたら目も当てられない。そのままお陀仏だ。 イメージ。イメージする。あらゆる地点を思い浮かべ、火星の後継者のいなさそうなポイントと、いても逃げ切れそうなポイントをピックアップしていく。
と、ラピスがアキトの手に触れた。
「アキト、わたしはダッシュと離れるのは嫌。ダッシュと会えなくなるのは嫌」
それはラピスの告白だった。想いを次々と連ねるラピスを、アキトはただ見るだけだった。
「……でも、それ以上にわたしは、アキトと離れるのが嫌。わたしはアキトとずっと、一緒にいたい」
アキトは何も言えない。ただ、今までにない位感情を吐露するラピスを、呆然と見ていた。
今の今も攻撃は続いているらしく、振動は響き渡るが、少女の言を止める要素には成り得ない。
彼女の邪魔は、誰にもできない。
「だから……」
尚も続く告白に、アキトは震えた。
「わたしは……」
怖いのではない。これはきっと、喜び。そう、歓喜。ラピスの成長に、アキトは歓喜しているのだ。
「わたしはアキトと一緒ならどうだっていい」
アキトは胸元にいるラピスを見た。その顔は何時もの無表情にも見て取れたがアキトには笑っているように見えた。薄っすらと微笑んで見えた。
アキトはIFSコネクタから手を放し、徐にラピスを抱いた。この娘を守りたい。ずっと、ずっと守っていたい。いつかもっと年相応に笑えるようになるまでずっと、ずっと……。
アキトの腕に力が篭る。絶望ばかりを見てきたが、今確かに小さな希望を見た。この娘そのものがアキトにとっての希望なのだ。
しばらく抱いていたら、おずおずとラピスも腕を回してきた。狭い空間にい些か不恰好だが、二人は想いを寄せ合っている。この瞬間だけは、誰にも邪魔のできない幸せを抱いていた。
「ラピス」
ん? と、ラピスは顔を埋めたまま返答する。アキトはそんなラピスの淡い桃の髪を優しく梳いてやった。
「祈ろう」
「祈、る?」
言いながら首を傾げる。ラピスはよく分からないという風だった。
その姿を見てアキトは苦笑する。ラピスの腰に手を回すと心地好い感触になった。
「そう。祈るんだ。ラピスと……ラピスと俺とが、幸せに暮らせる事を」
そう言って、ジャンプの準備をする。もう少しで、敵も此処に来るだろう。すこし急がなければならない。
「ほら、目を瞑って。祈ろう」
ラピスが目を瞑り、何かをボソボソと呟きだした。アキトにはよく聞こえなかったが、構う事はない。
ディストーションフィールドを展開し、ジャンプフィールドを展開させる。でも、特定のイメージはしない。ただ、ラピスを想った。
準備は万全。生きていられるかどうかは分からないが、アキトは奇跡を信じた。
ラピスを強く抱きしめる。そして、
「俺とラピスのシャングリラへ……ジャンプ!」
光だけを残し、二人は姿を消した。