ここでは、アキトの温もりを感じない。感じられない。
ラピスは不思議に思い、目を覚ました。
眠りに落ちるまでは抱かれていた感触を感じない。
嫌だ。これはきっと夢なんだ。でないと、アキトがここにいないことがラピスには考えられない。
夢、夢のはず。だから早く目覚めてしまおう。アキトがいないなんて事は、悪夢以外の何物でもない。
しかし、夢は一向に覚めなかった。何度も寝なおす。目が覚める度に周りを見渡す。まだ夢の中だと、また寝る。決してラピスは諦めず、何度もこれを繰り返した。
が、ラピスの言う夢は一向に覚めない。
どうしてどうして。最初はボソボソと呟く程度だが、次第に声が大きくなっていった。
「どうして、どうして? アキトはどこ? アキト、アキト」
さらに驚愕。ラピスとアキトは感覚をサポートする為のリンクで繋がっていた。そのリンクの繋がりは強いもので二人にはお互いの位置が分かる。が、ラピスにはアキトが感じられなかった。遠すぎるのか、リンクが切れたのか、それとも、アキトが死んだのか……。
そんな思考がラピスの頭をよぎった。
ああ、やっぱり夢だ。アキトが死ぬはずがない。夢だからアキトを感じないだけ。これは悪夢だ。悪夢なんだから、早く目覚めてしまおう。
しかし夢は覚めない。当然だ、夢なんかじゃないんだから……。これは、冷たい現実なのだから……。
落ち着いたのか、周りを見る余裕はできたらしい。
ラピスは森の中にいた。少なくとも人工的な建造物は見当たらない。木々は高く、ラピスを包むように立ち並んでいる。木が、葉が、森が光合成をするため、高く高く伸びている。その為、日の光はほとんど地面を照らさない。
体には異常はないらしく、無事ボソンジャンプは成功したようだ。まあ、アキトがいないのは無事とは言えないのかもしれないが。
ラピスは一人、人の温もりが感じられない森を歩く。
木々の影から、突然鳥が飛び出し、大きな鳴き声を上げる度、ラピスは驚き恐怖した。一人の恐怖を、いやアキトのいない恐怖をその身に新たに刻み込む。
だからか、歩くさながら、ラピスの思考はアキトの事で一杯一杯であった。
ちょっと前までブラックサレナのコクピットで二人は祈った。幸せそのものを。しかし、現実はどうだ? 幸せな生活どころか、傍にはアキトすらいないではないか。
想えば想うほど、寂しくなり恋しくなり、ラピスの表情は悲嘆の色に染まっていく。表情が歪んでいく。
元より、ラピスは感情が希薄な訳ではない。ただ、それを表情に出す術を知らないだけ。だから無表情にも見て取れるし、感情がないようにも思える。
だが、溢れる想いと暴走する感情が、今は自然に表に出た。
目尻から頬を伝い、尖った顎先で溜まり地に落ちる。
ラピスは泣いていた。最初はすすり泣くように、横隔膜が痙攣しているのか、時折り息を詰まらせている。
それでも歩を進める。アキトを求めて、温もりを求めて、幸せを求めて。しかしその足取りは、どこか危なげだ。
フラフラと歩き、足は引きずっているような感じ。何時躓き倒れるやも知れない歩調。
ラピスの耳に、音が聞こえた。風が冷たく吹き抜け、木々がざわめき、葉が擦れる音。今はそれにも過剰に反応する。
怖くなり、駆け出した。しかし、引きずっていた足が思ったより上がらず、そのままこけてしまう。木に囲まれあまり日が当たらないからか、地面はグジュグジュでラピスはそこに倒れこんだ。
こけた拍子に泥の付いた顔は、酷いものだった。目は赤く腫れ、目尻から頬を通る涙の橋が架かかり、真っ白な肌は泥で汚れてしまった。
我慢できなくなったのか、ラピスはとうとう大声で泣き出した。みっともなく、わんわんと。怖い怖いと喚き散らかす。この場所はとても冷たいんだ、と……。
泣き疲れたのか、声を上げすぎて喉が痛むのか、幾分か大人しくなっていた。それでも時折り、ひっひっ、と息の詰まる音が聞こえる辺り、どうも心中穏やかではないらしい。
歩くことを止め、地面に腰掛け、膝を抱える。顔は膝に埋め、表情を窺う事はできない。その雰囲気はどこか取り残された子どもを想起させるものだ。もしこの場が人里であれば、人の良い者が構ったりするのだろう。しかしここは人工とは掛け離れた大自然。まだ山であれば登山家などにも出会えたろうが、ただの森だ。人の通った気配すらない。あるのは高く聳える木と獣道。眺めたところで気休めにもならない。
もうどうしようもない、そんな悲しい思いで埋め尽くされる。
事実、どうしようもない。北辰の下からアキトに助けられ、アキトを介する事で人の温もりを知ったラピスにはアキトが世界そのものだった。
だからアキトが傍にいないこの現実は世界の崩壊に繋がる。
しかし、ラピスは一つ忘れていることがある。ラピスがボソンジャンプに成功しているのなら、アキトもまた、ボソンジャンプに成功しているはずなのだ。ただ傍にはいないだけ。それを一早く考える必要がある。が、今は少々感情的に不安定な部分がある為、潔くそこまで考えるほどの冷静さがなかった。
それほど、ラピスの今はパニックの状態なのだ。全てに絶望し、或いは、全てに希望を委ねるやもしれない。
だからか、葉が風の力だけで揺れる音ではなく、明らか人為的な音が背後でしたとき、ラピスは
「アキト!!」
希望を言葉に乗せ、叫び、振り返った。
しかし、それはあっさりと裏切られる形で終わる。
そこにいたのは、見た事もない男だったのだから。
男はラピスに警戒しながら近づき立て、と促す。しかしラピスも馬鹿じゃない。決して立とうとはせず、興味をなくしたのか、また顔を膝に埋めた。
それを見て男は苛立ったように無理矢理ラピスを立たせ、ボディチェックを手早く済ませる。銃器、爆弾等は持ってないと判断したのか、無線機を取り出し、連絡を取る。
「例の音源発生地から数メートル先のポイントで、マシンチャイルドと思しき子どもを発見」
マシンチャイルド。子ども。ラピスはどこか遠くでこの声を聞いていた。だが、自分を指す言葉だという事は漠然と分かっていた。
「……了解。以上、通信を終わります」
事務的な言葉遣いで、無線を切る男だが、
「おい、行くぞ」
とラピスに対しては地、どころかむしろ冷たい言葉を放つ。
そして、乱暴にラピスの手を取った。
ラピスは驚いた。男の、余りにも乱暴な、その手の取り方に。
アキトのような優しい気遣いは、微塵も感じられない。もっと強引な、それでいて強制を含む乱暴さ。この扱い方は、そう、研究員と同じ。
本能的に、また実験されるとラピスは思い、力の限り腕を振り回し、その手を放す……はずだったが、大人の男の前ではラピスのその抵抗は空しく、まるで、駄々を捏ねる幼女のようだった。
「放して! 放して! 嫌だ! アキト、アキト!!」
成す術もなく、ただラピスはアキトに救いを求める。しかしアキトは一向にやって来ない。当然だ。アキトが、ラピスの声の聞こえる位置にいないのだから。
男は五月蝿く、またウザイと思い、ポケットから黒い何かを取り出す。スタンガンだ。そしてそれを、躊躇う事無く、ラピスの髪の毛ごと首に押し付けた。
「――――っ!!?」
髪の焦げる臭いと共に、視界がブラックアウトする。何をされたかも分からず、ラピスはまた眠りの世界へと旅立った。
「素ぅ晴らしいぃぃ! こぉんな、こんな存在があったとはぁ! まったく、ネルガルも当てにならん! 十を超えるマシンチャイルドが存在しないなどとぬかしおって。現に! こうして! こぉこに! いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃるではないかああぁぁぁぁぁぁ!」
何かとハイテンションな白衣を着る痩せ男が、診察台の上で寝ているラピスを目の前に、狂喜乱舞している。振り回す手に持つ、鈍く光るメスが危ない。周りの大人たちも皆白衣を着て、男から少し距離を置き同様に歓声を上げている。
原因は、ラピスの予想される肉体年齢。
彼らはすこぶる気分が良い。当然だ。彼らは、歴史を書き換えたのだから。とは言え、この情報を表に流すことは、完全に無理なのだが。ルリのいた、合法的な人間開発センターとは違い、非合法な研究所なのだ。人間開発センターには親会社としてのネルガルのバックアップがある。ここの研究所もネルガルのバックアップを受けてはいるが、それは裏の話だ。表向きはただそこに在るごく普通の建物で、ネルガルとは何の関係もない、と言う扱い。早い話、真っ当な所ではない。
自分たちの功績――ただ警備員が異変のあった場所から連れて来ただけだが――に大人たち、いや研究員たちは酔いしれる。
酒を浴びるように飲んだようなテンションで、歓声を上げる者から一人、若い研究員が一際テンションの高い、手にメスを持つ痩せ男に訊ねる。
「所長! コレのこれからの扱いは如何なさるのです!?」
周りの者の声がデカイせいで若い研究員も釣られて大声を出す。
手にメスを持つ、所長と呼ばれた痩せ男は顔を顰めて、
「如何するとはぁ!? 具体的にどう言う事だぁぁ!?」
と、声を上げながら逆に質問を返す。
若い研究員はこれから行うであろう、実験にときめいていた。彼の知識欲をこれ以上駆り立てる素材は存在しないだろう。
だから、質問の内容は当然、実験に関する事。これから話す内容も当然、実験に関する事。
「どうやって実験するんですか!? これだけ成長しているのだから、それなりにきつい実験、例えばどの位の量のナノマシンに耐え――」
若い研究員はそれ以上続けない。否、続けられる状態ではなかった。
腕から噴出す赤いドロドロした液体、腕から生え出たように立つメス。その柄には所長の手が握られていた。示す事は、ただ一つ。
「あっ、はがああぁぁぁぁ!!」
刺されていた。腕を。若い研究員は痛みに声を上げる。周りの者も異常な叫びを聞き、急に静まった。
「いぎいぃぃ――――――っっっ!!?」
所長は手に持つメスを乱暴に動かす。嫌な、妙に生っぽい音が、部屋に響き、若い研究員も痛みがさらに強くなり、声にならない叫びを上げていた。
やがて、所長はメスを抜くと、血を拭き取る為の白い紙を取り出し、それに丁寧にメスをなぞらせる。そして、言う。
「この、大ぉぉぉぉ馬鹿者ぉぉぉ!! 何を言っているぅぅ!? どの位の量のナノマシンに耐えられるかだとぉぉぉぉ!?? 下手すればぁ、コレが死んでしまうだろうがぁぁぁ!!」
眠るラピスを指さしながら、ガアアっと、怒鳴る。若い研究員はもう聞いてもいない。床に寝そべり、ただ痛みに耐えている。臆面もなく舌打ちを連発する所長に、他の研究員たちはさらに距離を取った。誰も、若い研究員を助けようとはしない。
何時もの事。皆がそう思う。若い研究員は最近ここに来たばかり、日もそんなに経ってない。なので所長の性癖を知らなかったのも仕方ない。所長は、自分と違う考え方をする者をとことん痛め付ける。それで何人もが死んでいる程の危険ぶり。言ってしまえば、狂っているのだ。
「コレは、大変珍しいぃぃぃモノなのだぞぉ!! 分かっているのかぁ!? それをぉぉぉ、簡単に殺してしまってぇぇぇ、堪るものかぁぁ!!」
そう言って寝そべる若い研究員を蹴り飛ばす。さらには執拗に踏みつけ、鳩尾を蹴り、頭を踏みつける。
若い研究員は、もう呻き声すら上げない。気絶していた。根性のない奴だと言いたげに、所長はまた舌を打つ。
どかっと椅子に座り、資料を手に取りながら、
「何をしているぅ、早く持ち場に着けぇぇ!」
一喝する。すると、先程まで事態を見守っていた研究員たちが忙しなく動く。部屋を出て行く者もいれば、そのままそこに残り、ラピスに異常がないかを調べる者もいる。そこに警備員が入ってきて、例の若い研究員を運んで出て行った。
白衣を着た女から紙を受け取り、所長はそれにペンを走らせる。どうやら記録しているらしい。その紙の時期を書き留める欄には、確かに書かれていた。「2190年」と。