「おいお前、どうやって入って来た?」

声に反応したように、その男は足を止めた。
夜勤の眠気を覚まそうと、コーヒーを煎れて来た帰りの出来事。
カップを滑らせて落とし、白衣に染みが着く。
扉を出た目の前、真っ黒な男が通路を歩いていた。
見れば見るほど怪しい格好。
黒服。
黒マント。
後ろ向きになっていて見えないが、あれはバイザーだろうか。
一瞬、幽霊か何かかと思った。
どんなに良い方向に見ても、同じ技術者には見えなかった。
この場所に入るには直通のエレベーターが一本のみ。
限られた人間が持つカードキーを使うしか、入ってくる手段はない。
そして今日は、この一人の研究者以外の人間がここに来る予定はない筈だった。

「……人間開発センター、地下7階実験施設……誤差はゼロ……」
「……聞いているのか?」

無視を決め込み、何かを呟いている男。
強い口調で怒鳴っても、返事はない。
寝不足で幻覚でも見ているのかと思い、研究者は自分で首を振る。
まだ、そこまで朦朧はしていない。
自分と同じ技術者にも見えないが、どうだろうか。
後ろめたいことをやっている以上、上司がどんな人間を雇っているかわからない。
思えば前にもこんなヤツが来たことがあることを、思い出す。
格好こそ自分と同じ白衣だったが、何というか、雰囲気が自分たち『まとも』な人間とは違う人間。
そいつは突然やってきて、上司の許可書を見せると『人形』を一人連れていった。
廃棄も近かったし、データも取り尽くしていたため利用価値もない。
何よりこの研究者は下っ端の下っ端。
夜間のデータ確認が主な仕事。
アルバイトと大した違いもないだろう。
上司の命令ではしかたがないが、納得のいかないものがあった。
連れていった技術者の名前は確か、ヤマサキとか言っただろうか。
今となっては、どうでもいいことだ。
遂には立ち止まるのをやめて、再び歩き出した男の肩に手を掛ける。

「査察か何かは知らないけれど、時間を考えろ。人形はまだ寝てる、今来てもデータはやれない」
「……人形?」
「ああ、いや失言だった。上司の命令でそう呼ばされている。造られた人の紛い物とは言え、人形と呼ぶのはどうかしていると思うがな」
「……そうだな」

男はふらりと、興味を示したように顔をこちらに向ける。
やっと分かってもらえたのかと、エレベーターへの道を譲るが、まだ男は動かない。

「さぁ、帰ってくれ。明日の昼には責任者が戻って来る。言っておくが上のホシノ技術局長に何と言われてようと、ここは管轄が違う。ナノマシンの開発施設ってことになってる。お前も裏の仕事なら分かるだろう、帰る時に余計なことは言わないで欲しい」

少し苛立ちを覚えながら、男を押しだそうとした時だった。
ゴチッ、と額に何かが押しつけられた。
押しつけられた物を辿ると、黒衣の男の手のひらに繋がっている。
紛れもなく、拳銃。
サイレンサーらしき物がくっついていて、それはとても長く感じられた。

「……何のつもりだ、お前」
「貴様の雇い主は誰だ?」

低く、冷たい声で聞いてくる男。
正直、やってられない気持ちになる。

「……私は馬鹿か? 同業じゃなかったか。まぁ、いい。上司は今のネルガルの社長……これでいいか?」
「随分、口が軽いな」

信じてもらえるとは思っていないが、嘘を言って殺されたのでは意味がない。
一応、両手は上げておくことにする。

「雇われ社員。給料は大事だが、命には及ばないことくらい自分で弁えている。それで、殺すのか?」
「…………いや、興ざめした」

男はしばらく考えるように暗い眼でこちらを見たあと、銃を下ろした。
腰を抜かしてへたり込むと、カツカツと廊下を足音が遠ざかっていく。
視線を上に向けることができないくらい、実はビビっていた。
それにしても、残念だ。
男が『あの部屋』に行くと言うことは、研究者の職は手元に残らないだろう。
こんなのでも技術者の端くれ。
仕事には充実していたと言える。
そう言えば、自分は何を目指してナノマシン工学を学んで来たのだろう。
場違いな仕事とは言え、ネルガルに就職したのもそれが理由だった筈だ。
ふと、意味も無く呟きが漏れた。

「…………ホシノ・ルリ、完璧な人形か」

思わず漏れた本音。
プシュッ、という音。
自分の体を見ると、右足に空いた穴から血が溢れてきている。
見上げる。
真っ黒男が、銃を構えてこちらを向いていた。

「は、はは……は……殺さないと、言ったじゃないか」

掠れた自分の声。
馬鹿みたいに痛い。
床を這うようにして男を睨みつけると、生きると言う希望を完全に諦めた。
幽霊なんかじゃない。
立っているのは、悪鬼。
次元が違う、化け物。
体が、今更震えだした。
頬を、涙が伝う。

「次に彼女を人形と呼んでみろ……その頭を吹き飛ばしてやる」

目を瞑って、故郷で生き絶えたの母親のことを思い出していた時、男は吐き捨てるように呟いてまた足音を立てる。
訳がわからないが、あんなモノに接触して生きているのが不思議なくらいだった。
痛い。
死にそうなくらい。
痛みを感じられると言うことは、まだ生きている。
這いずり、壁に寄りかかる。
今度こそ、男はマントを翻して通路から去っていた。










試験管の中、少女は目を覚ました。
正確な時間は分からないが、零時は回っているだろう。
眠る時間は、いつも決まっているので間違いない。
少女は首を傾げる。
睡眠の途中で目覚めたことは、初めての事。
試験管いっぱいに満たされた人工羊水を掻き回すように、くるっと周りを見る。
誰もいない、研究室。
少女は自分がどんな存在か、ある程度把握しているつもりだ。
ネルガルと言う企業の実験体。
プラスチックとシリコンで作られた10のマイナス……いくつだっただろうか。
とにかくナノマシンと言うとても小さな機械が自分の体に入っていて、時には痛み、時には苦しみを少女に教えてくれる。
まだ本格的な『教育』の段階までは受けていない少女には、難しいことはよく分からない。
少女が最初に記憶した景色はこの試験管越しの世界だし、無針注射によるナノマシン投与実験以外では、この試験管を出たことすらない。
会ったことのある人間も、白衣を着た恐い顔の研究者だけ。
この研究室のずっとずっと上の階には、自分の成功作がいるのだと、研究者が話していたのを聞いたことがある。
成功作。
マシンチャイルド、と言うらしい。
成功作と失敗作の違いは、あまりに明確。
公にできる者と、そうでない者。
少女は後者、幼いながらも自分が世の中にバレてはいけないのだと研究者の態度から察していた。
ふと思い出し、訂正。
この部屋に誰もいない、と言う訳ではない。
少女の周りにある幾つもの試験管。
まばらな位置にポツポツと、羊水に満たされた試験管。
少女と同じような子供が何人か、目を瞑って浮かんでいる。
話したこともなければ、触れたこともない、同じ実験体たち。
接触自体はなくても、それでも狭く暗い世界で共に生きる、言わば仲間意識、自分と同じだと言う繋がりのようなものを少女は感じていた。
少女の隣の、空の試験管。
数日前、連れていかれた。
それまでは、赤い髪が綺麗な個体が入っていた試験管。
たまに目が合う程度の関係だったが、少女にとっては閉じられた空間の中、他の誰よりも身近だったと言える。
外の世界から来る研究者たちを、少女は嫌いだった。
たまにデータを取りに来て、規定以下の個体は処分。
処分。
何度も、研究者が口にした言葉。
その言葉と一緒に隣の個体は連れていかれて、二度と帰っては来なかった。
身を捩る。
少女は割と『優秀』な部類に入るらしく、連れていかれはしない。
強化体質との相性が何とか、と言っていた。
ナノマシンを投与されれば痛みはあるが、すぐに慣れる。
おそらくそのことだろうと、少女は考えていた。
何故、起きてしまったのだろう。
夜に起きても良いことはない。
暗いし、寂しくなる。
外の世界は、暗かったり明るかったりするらしいが、この場所はいつも暗いからどうでもいい。
違和感。
落ち着かない感覚。
誰かに起こされたような、そうでないような。
とにかく、少女は眠る気にはなれなかった。
何を期待して自分は起きてしまったのか、少女には分からない。
予感。
そんなものを、感じたのかも知れない。
ますます良く分からなくなって、少女は目をパチクリさせた。
明日も、痛い思いをするのだろう。
また誰かいなくなるのかも知れない。
痛い思いをするのかも知れない。
それは、嫌。
嫌なら、どうしたらいいだろう。
少女は今まで疑問にも思わなかった。
いなくなるのが、嫌。
痛いのが、嫌。
出たい。
この場所を、この場所から。
逃げ出せるなら、そうしている。
無理だと分かっていて、少女はそう結論付けるしかなかった。
ここで起こることには、抗えない。
でもここを出れたら、外を見てみたい。
広いのだろうか。
ここよりは広いのだろう。
少女が夢に思いを馳せていると、プシュッと、静かな部屋に響く小さな音が聴こえた。
カツ、カツ、カツ、カツ、と一定感覚を刻む音。
なんだろう。
最初に鳴った音と一緒に、人の声が聴こえた気がした。
それからは、断続的な足音。
皆には聴こえないのか、目を覚ます者はいない。
足音は近づいて、この部屋の扉の前で止まる。
こんな時間に、こんな場所に来る人間はいない。
来たとして、いつもの白衣。
開く扉。
こんな時間に目を覚まして、『たまたま』起きていてしまった少女は、目を見開いた。
入って来た人物は、白衣とは対照的な真っ黒。
独り、少女には目もくれず、部屋の隅の制御機器へ向かうと作業用のIFSコンソールに手を当てる。

『マスター、どうですか?』
「……遅かった。ここは通った後のようだ」
『落ち込まないでくださいよ……マスターだって万能じゃないんですから、失敗は私と半分こです』
「……わかっている」

男の人と女の人。
少女には会話の声が、そう聴こえた。
男の人が一人しか、いない筈なのに。
誰だろう。
何だろう。
少女は好奇心から耳を澄ます。

『私がリードします。手順通りに、子供たちの試験管から羊水の排水を……』
「ああ、こうでいいのか?」
『はい、上出来です。マスター、IFS端末の操作上手くなりましたね』
「……オモイカネに、ちょっとな」
『……だからオモイカネは嫌いなんです。私がいない間にマスターと親密になって、私からマスターを取っちゃう気なんだ』
「…………さて、終わったし帰るぞ。アカツキに匿名連絡で、情報を流してくれるか?」
『私が火星に着いた時も夫婦みたいに会話してたし、マスターはすぐ誤魔化すし…………いいですよ、私は一生懸命尽くしますから』

拗ねたような女性の声に、男は「……はぁ」と溜め息を吐いて見せた。
そこで、少女は試験管から水が抜けていくのに気付く。
半分程水が抜けたところで試験管が開き、バシャッと水が抜けきると同時に、少女は自重に負けて残った土台にへたり込んだ。
キョトンとして、男を見上げて首を傾げる。
他の試験管の子も突然の出来事に目を覚ましたのか、少女と同じようにペタっと座り込み、男を見て首を傾げている。
不思議、不思議。
みんな、目がまんまる。
少年少女にして見れば、不思議で仕様がないことだろう。
出して欲しいと願ったら、この人が出してくれた。
少女には、それが偶然ではないように思える。
自分が今晩目を覚ましたのは、この人をより長い時間見ていられるように。
そんな、気がした。
男は入って来た時と同じように、少女を見ることなく、前を通り過ぎようとする。
その瞬間、パッと少女の視界が半透明な何かに塞がれた。

『こっちでは初めまして、小さなラピス』

視界を塞いだ四角形。
四角形には、小さな小さな妖精みたいな女の子が映っていた。
びっくりして、少女は四角形に手を伸ばすも手は空を切ってすり抜ける。
そんな少女が可笑しいのか、四角形の中の女の子は『ふふふ』と微笑んでいた。
少女の体が、影に隠れた。
見上げれば、真っ黒な男の人が目の前に立っていた。

「……ダッシュ、どういうことだ?」
『この子は、ラピスです。6つくらいでしょうか、ちっちゃくて可愛いですよ』

よしよしとでもやりたげに、少女の頭をすかすかと通過する四角。
ラピスとは、誰のことだろう。
識別番号しか与えられていない自分。
この二人は、誰なのだろう。

「そんなことを聞いているんじゃない。何故、ここにいることを黙っていた」
『言ったらマスター、意固地になって会わなかったでしょう。ラピスを放っておいたら、爬虫類に連れてますよ? それでも良かったのですか?』
「む……それは……」
『まぁ、この子に名前付けてあげて欲しかっただけなんですけどね』
「……本音が出ているぞ」

真っ黒い人は疲れ気味にまた溜め息を吐くと、少女の前にしゃがみ込む。
視線が近くなると、顔がはっきり見えた。
黒い。
顔の半分くらいが、黒い何かで隠れていた。
黒い、板。
少女は『これなんだろう』と思って、手を出そうか出すまいか迷っていると、体に何かが巻かれた。
真っ黒い、布のような物。
男の人の背中についていたヒラヒラが、無くなっていた。

「……寒くないか?」

ふるふる。
首を振る。
あったかい。
いつもの粗暴な研究服以外の何かを着せられた、着せて貰ったのは、初めてのことだった。
男の人の目は、少女から見えない。
見えないけれど、少女はその瞳に安心感を覚えた。

「名前は、あるか?」

しばらく考えて、思い出す。

「……C-0016」

小さく精一杯の言葉で発すると、男は小さく笑ってみせた。

「それは番号だ」
「ちがうの?」
「違う」

そう言うのなら、そうなのかも知れない。
自分はまだ、何も知らないから。
それなら、名前とは何だろう。
個体を識別するための番号とは違う。
物にも付いている、名前。
自分には、ないもの。

「……名前、ほしいか?」

反射的にコクンと頷いてしまった。
あまり勢いがついたせいか、首がちょっと痛くなる。
前を見ると、男はまた小さく笑っていた。

「ラピス・ラズリ……それが君の名前だ」
「……ラピス・ラズリ……?」
「そうだよ」

男の手が上がる。
少女はビクッとして、身を縮ませた。
何をするのだろうか、叩くのだろうか。
怖がって目を瞑ると、頭に柔らかい感触があった。
撫でられる。
羊水から出たばかりなので、長い髪はまだ湿っていた。
気にしていないのか、男は二、三度少女を撫でると立ち上がった。
少女は、男から目を離さない。
黒衣の男は、どこから出したのか白い布を持って少女の横を再び通り過ぎて行った。
更に何かを期待するように男を見ていると、男は少女に背中を見せる。

『マ、マスター、もう行っちゃうんですか?』
「……この子のことは、俺が関わるべきことじゃない」
『でも、ラピスですよ?』
「もうラピスにはあえない。寂しいのはわかるが諦めろ。この子は、たまたま同じ名前だっただけだ」
『……マスター』

男の人は歩き出し、遠ざかっていく。
扉が再び開き、姿が消える。
少女は、自分の足に力を込めた。
体を包み込む、真っ黒い布。
あまりに大きすぎて、ずるずると引きずってしまう。
後ろを振り返ると、いつの間にか子供たちには白い布が掛けられていた。
まん丸な瞳は、今も出ていった人物を捉えているように真っ直ぐ。
少女と同じようにぶかぶかな衣、それでも寒くはない。
冷たくは、ない。
ラピス、と言う名前。
ラピス・ラズリ。
忘れないように三度呟いて、ラピスは足を前に出す。
一歩、一歩。
慣れない足取り、ふらつく足取り。
少女、ラピスは自分の意志で立ち上がった。
何をしたいのかは、わからない。
ただ、付いていきたかった。
今の仲間よりも、繋がりを捨ててでも。
置いていかれるのは、嫌。
そんな、変な思い。
最初見た時から、抱いてしまった不思議な思い。
ラピスは布を握り締め、自らの足で歩き始めた。










黒衣の男、アキは歩みを止める。
すると、ペタペタという音も、止まる。
小さく三歩、前に出る。
ペタペタペタ。
また止まると、音も止まる。
アキの背中には、ジッとした視線。
どうしてほしいのだろうか。
アキは本日だけで三度目の溜め息を吐いて、額を押さえた。

『あの、マスター?』
「わかっている……わかってるから、何も言うな」
『でも、かわいい……じゃなくて、ああもう、私の在り方がもどかしいです』
「…………」

アキが歩く度に聴こえる、ラピスのちんまい足音。
裸足なためか、ペタペタという足音が良く通路に響いた。
歩き方が危なっかしく、時々足の踏み場を間違えて転びそうになっている。
どこで、狂ってしまったのか。
違法研究施設の駆除と、違法実験によって捕らえられているマシンチャイルドたちの救出。
アキは皮肉って世直しなどと冗談で言ったが、文字通り腐った連中を駆逐するために、今日この場にアキは現れた。
暇になってしまった幾ばくかの期間。
その間にできることを考え、今回が初めての活動だった。
ダッシュに選択を任せた時点で、何か波乱に満ちていることに気づくべきだったのだ。
とは言え、ほうっておく訳にもいかない。
アキはラピスに背を向けたまま、口を開く。

「いつまで付いてくるつもりだ」
「……わかんない」
「……俺はいくぞ」

歩みを、進める。
今度は、少し早足で。
酷かも知れないが、仕方のないこと。
なにしてるんですかー等と、わーわー喚いてるダッシュは、この際無視することにした。

「ん……」

最初は懸命に付いていこうとしていたラピスも、まだ歩くのに慣れないのか段々と距離が離れていく。
うっすら苦悶の声に、早く動かそうと頑張っている足の音。
正直、心が痛い。
しかし、時には心を鬼にしなければいけない時もあることを、アキは心得て――



びたんっ。



唐突に、足音が止んだ。
これ以上ついてくる気配も無い。 それもそのはずラピスは転けたのだ、それも豪快に。
瞬間、アキに焦りが生まれる。
逃げようとしていたことなど忘れて、アキはラピスに駆け寄っていた。
倒れたまま動かないラピスを抱き起こす。

「大丈夫か? 痛くないのか? どこか病院に……」
「……いたくない」
「……そうか、無事か」

偉い偉いと、アキはラピスの頭をくしゃくしゃと撫でる。
何が偉いかなどどうでもいい、強いて言うなら転んでも泣かなかったことが偉い。
痛みという感覚が希薄なラピスには、造作もないことだが、ラピスもまんざらではない表情で、されるがままにされている。

『マスター……すごい過保護だと思います』
「……うるさい」

結局、鬼にした筈の心でも、アキは鬼になりきれない。
ラピスの無事を確かめて喜び、安心からラピスの頭を撫でるアキを、ダッシュはくすくすと笑いながら見ていた。

「……だれ?」

ラピスが初めて自分から口を開く。
今度はアキとダッシュが首を傾げた。

『「誰?」』
「……だれ?」

そこでアキは気が付く。
聞かれているのはアキが誰か、と言うことではない。
純粋に、『誰』なのか。
自分に与えられた物に関連する物に対する好奇。
ラピスに名前は与えたが、自分の名前は教えていなかった。

「アキだ。覚えなくていい」
「……アキ……アキ?」
「……そうだ」

ラピスはこくんと納得したように頷くと、ぶつぶつと何かを呟き始めた。
心なしか、アキと連呼しているように聴こえる。

『本気で覚えにかかってますね』
「……だれ?」

ラピスは、今度はダッシュに問い掛ける。
名前くらいなら、教えてしまってもいいだろう。
見えはしないが、ダッシュの楽しそうなニコニコ顔が目に浮かぶ。
完全な他人とは言え、久しぶりに出会えたラピス。
ダッシュも嬉しくなるのも頷けると、アキは無言のままダッシュに許可をだした。

『私はダッシュと言います。マスターの忠実な下僕で……』
「黙れ」

妥協した自分が馬鹿だった。
アキはピシャリと、ダッシュの発言を却下する。

『事実です。ラピスはどうぞお母さん、と呼んでください』
「おかあさん?」
『はい、ラピス』
「……おかあさん」

洗脳とは、こういう物を言うのだろう。
アキは、生まれて初めて刷り込みというものをまじかで経験しようとしている。
幼い純粋なラピスに要らぬことを吹き込むのは、よろしくない。
信じきったラピスに、満足げなダッシュ。
再開は、これっきり。
明日からは、ネルガルに保護されて二度と会うことなくなる。
お互いに接触しないまま、別れるのがベストだった。
甘いのだ、アキは。
善い意味でも、悪い意味でも。
この二人にも、ナデシコのクルーにも、そしてルリにも。
幸い、アカツキ直下部隊が来るまでは早くてもあと10分はある。
しばらくはダッシュとラピスに付き合ってやっても、そうアキが考えていた時の事。


僅かな、足音。


視覚を失い、聴覚に敏感なアキだからこそ分かるくらいの小さな、それでいて整った複数の足音。
部隊の到着。
アキは落ち着いて、懐から一つCCを取り出した。

「……ダッシュ」
『来ましたね。逃げますか?』
「妙だ、早過ぎる」

逃げるのはもちろんのことだが、不可解な点は調べておく必要がある。
アキがラピスを抱えて空いた部屋に隠れると、ダッシュから返事が返ってきた。

『はい。ここに侵入した時点で私が連絡しましたし、予定通りです』

あっけらかんとダッシュは言った。
アキは聞き違いかと、一瞬唖然とした表情になる。

「……何?」
『……今の状況を見て、気付きませんか?』

現状で部隊の到着が早まった以外に、何も予定外のことなどない。
アキは研究データを改竄できたし、場所の漏洩も済んだ。
怪我はなし、CCも補充して抜かりなし。
ラピスもアキが抱えているから無事。
あとは子供たちが保護されれば、全部が上手くいったことになる。


……………………。


そこで、アキの背筋が凍りつく。
おかしい点に、気づきたくない。
本能でそう思っても、理性では警報が鳴ってしまっている。
改めて、アキは自分が小脇に抱えた物を見る。


何故自分は、ラピスを抱えているのだろう。


疑問などもう役に立たない事を、アキはこの時点で知らなかった。

『さ、目的達成。帰りますか、マスター♪』
「……まさか」
『本当に、マスターは子供に好かれますよね?』

腕には、ヒシッとした感触。
ラピスが、しっかりとしがみついている。
ここまでの段取りを決めたのは、全部ダッシュ。
アキは、忘れていた。
このAIが凄まじいお節介焼きだと言うことを。

『どうしますか、このままジャンプしたらラピスが大変なことになりますよ? それとも……可愛いラピスを無理矢理ひっぺがしますか? 途中で引っ付いたら元も子もありませんよ?』
「……それが、お前の目的か?」
『問答を繰り返す余裕はありません。隣の部屋まで来てますよ?』
「初めから変だったんだ。お前にしては段取りが良過ぎだと……覚えていろよ」
『貴方が望むなら、いつまでも。お叱りは後ほど、甘んじて受け入れます』

こうなると、アキの完全敗北。
言いたいことを言って消えてしまったダッシュに悪態をつきながら、アキは跳躍の準備をする。
黒い膜が、アキとラピスを中心に覆い被さった。
アキは、ラピスに顔を向ける。

「……ラピス」
「……?」
「目を、瞑ってもらえるか?」

ラピスがこくんと頷くのを確かめると、アキはCCを握り締めた。
ラピスの件は、保留にする他ない。
問題のダッシュは、あとで折檻することをアキは深く心に刻む。

「ジャンプ」

力を吸い取られるような感覚。
アキは意識を強く持つと、イメージを固めていく。
アキとラピスが消え去るのと、ネルガルのシークレット・サービスチームが部屋に踏み込むのは、寸分の差だった。
部屋にはもう、誰もいない。
淡い光だけがそこに存在した何か痕跡を示し、揺らめいていた。










あとがき(初)
お目汚しになると思い、今まで書きませんでしたが、ついに書かねばならない事態に。
既にご覧の通り、The blank of eight months 大体こんな感じでお送りします。
ルリが出てこない黒衣なんか黒衣じゃないやいっ!
オモイカネがいないのにやってらんなよっ!
などの確固たる鉄の意思をお持ちの方は、残念ですが疎開して本編をお待ち下さい。
アキ、ラピス、ダッシュでお送りする今後、今までと同じく楽しんで頂ければ幸いです。




感想。

ラピオスキター!

今回の感想はこれくらいで充分なほどの内容だぜ…恐れ入った。

まさかここでロリラピを入れてくるとは…感服した。

外伝、続きが気になる話ですな。