研究室以外の部屋。
期待していたほど、綺麗な訳でも派手な訳でもなく、簡素な部屋だった。
ベッドが一つ。
IFS端末が一つ。
長方形の木でできた大きな箱が一つ。
くまのぬいぐるみが、一つ。
ラピスは一つ一つを興味深そうに眺めたあと、自分を抱きかかえている人物を見上げた。
何故最後にしがみついてしまったのか、それは分からない。
何故付いていきたいと思ったのか、未だに分からない。
安心できた。
温もりをくれた。
名前をくれた。
誰にも触れられた事のない自分。
本当の意味で初めて、自分に触れ、頭を撫でてくれた。
誰かにとっては、些細なことなのかも知れない。
ラピスにとってそれは、とても大きなこと。
ラピスを抱えているアキと言う名前の人物は、何やら落ち込んでいるのか、ふがいなさそうにしていた。
初めて見た時から、溜め息を吐いていたのを覚えている。
悩み事。
ラピスにはあまり無縁の言葉だが、意味は知っている。
この人も、それなのかも知れない。
少し心配するラピス自身、自分がアキにとって悩みの種であることには気付かない。

「……?」
「……どうした?」

ラピスは改めて辺りを見渡す。
ここは、どこだろう。
今更だが、ここは研究室ではないのだ。
それなら、どこだろう。
通路を裸足で付いていって、この人に抱き上げられて、目を瞑って、どうなったのだろう。
浮遊感のようなものを感じたのは、ラピスも覚えている。
今、ラピスがいるのは、全く違う場所。
それくらいは、ラピスにも理解できた。
難しい表情を消してラピスに声をかけたアキに、ラピスは疑問を口にする。

「……どこ?」
「…………」

疲労しているのか、アキは答えず頭を押さえ、ラピスを降ろしてベッドに腰掛けさせた。
向かいにアキも座って、真剣そうにラピスに口を開く。

「いいか、ラピス……」
『どこだと、思いますか?』

アキの言葉は最後まで届かず、代わりにラピスの前にはまた四角形が現れる。
四角形の中には、小さな妖精。
にこにこと、笑っている。
対照的に不愉快そうに顔を歪めるアキを、ラピスは少し可哀想に思った。
どうしてこんなにも自分より小さいのか、どうして四角形に入っているのか、聞いてみたいが、今は答えることにする。

「おへや」
「半分正解……正確には、貴女のお部屋ですよ」
「……わたし?」
「ええ、気に入りましたか?」

よく、分からない。
部屋など、ましてや自分だけの部屋になどに、ラピスは居たことがない。
ラピスが困った表情をしていると、また頭に何かが触れた。
大きな手。
アキの手が、ラピスの頭の上にあった。
ゆっくりと手が動くと、自分の薄い桃色の髪も揺れていた。
不思議な、安心感と安堵感。
ラピスはボンヤリとしながら、微笑むような困ったようなアキの顔を見ていた。
それもつかの間、アキは音に反応するように四角形を睨みつける。

「今からでも遅くない、ラピスは……」
『マスター、私がいない間に相当無茶しましたよね?』

アキの言葉を再三遮ると、ダッシュが話し始める。
アキは怪訝そうにダッシュを見ると、言葉を返した。

「まだ、何とかなる……それとこれとは別の話だろう」
『まだ、です。いつかは壊れてしまいます。マスターは病院にもいかないし、治療も受けない。それなら私で何とかするしかないじゃないですか』
「それで、ラピスか?」
『マシンチャイルドのナノマシン処理能力……一部でも負担が軽くなれば、いずれ眼も』
「俺は、そんなことは望んでいない」

難しいことを話し出す二人。
ラピスはちょこんとベッドの端に腰掛けながら、たまに自分の名前がでる会話を聞いていた。
羽織った大きい布の裾を握りしめ、力を抜く。
この二人は、自分に痛いことはしない。
怖くない。
恐くない。
それは、安心できると言うこと。
ラピスはほっとすると同時に、何とも言えない独特の落ち着かない感情を覚えた。
擬音に例えるなら、うずうず、もじもじ、が適当だろう。
そんなラピスに、二人が気づくことはない。

「成り行きで連れてきてしまったが、ラピスは他の子供同様、アカツキのところで保護してもらう」
『あんなロン毛、信用できません』

ロン毛とは、誰だろう。
疑問を疑問に思う余裕すら、薄れていく。

「確かにあいつは軽薄で、ただのロン毛のスケコマシにしか見えないが、根っこはしっかりとしている。この子はお前が知るラピスじゃない、俺たちが干渉するべきではない」
『知ってるとか知らないとかじゃありません、ラピスはラピスです! マスターだって、ホシノ・ルリとは、ずいぶん仲良くしてたってオモイカネに聞いているのですよ!』
「ル、ルリは関係ない」
『あ、そう言えばルリって呼び捨てですよね! こっちのルリとは親密なのに、こっちのラピスと私は蔑ろですか!?』

たじろぐアキに、優位に立ちつつあるダッシュ。
ラピス、こっちのラピス。
ルリ、こっちのルリ。
自分の名前、誰かの名前。
二つの名前は、何故か別々な四人のことを示しているように、ラピスには聞こえた。
ヒートアップしてきた二人をよそに、ラピスは話を理解しようと必死だった。
ラピスが内容を聞いていてもチンプンカンプンなのだが、アキはラピスを別なところに、ダッシュはラピスを留めようと。
二人の意見が分かれ、揉めている事くらいは理解できた。
この場所にラピスを連れてきたのは、真っ黒な板に顔を隠したアキという男の人。
この場所からラピスを連れ出そうとしているのも、アキ。
何故だろう。
会話の流れしか掴めないものの、ラピスは不安感からアキを見上げる。
ここに自分がいては、いけないのだろうか。
この人は、自分が嫌いなのだろうか。
不安になる。
ふと、疑問が浮かんだ。
ラピスは、どうなのだろう。
今まで、ラピスは『人間』に対して嫌悪も好意も抱いたことはなかった。

『痛いのは、嫌』
『怖いのは、嫌』

試験管の中で覚えたのはこの二つ。
人がラピスたちを物だと思うように、ラピスも人間を同じ存在だと思ってはいなかった。
この人たちは、嫌いじゃない。
どちらでもない存在。
閉鎖された研究室という空間の、外から来た人物。
それだけではなく、側にいると温かい。
一目見た瞬間に、何かをラピスはアキに期待したのだ。
名前を付けてもらった時、初めて触れてもらった時、連れ出してもらった時、ラピスは純粋に嬉しく感じていた。
叶うはずがない自分の願いが、誰かに届いたのだと。
何人もいたマシンチャイルドの中で自分だけがここにいる事実に、少し後ろめたいものを感じつつ、ラピスは思考する。
残念ながら、全部を纏めることはできない。
知識も経験も、何もかもが足りない。
あるのは有り余る好奇心だけだ。
分かった事は、アキが勝ってしまうとロン毛と誇称される、話をラピスなりに汲み取る限りろくでもない人物のところに行かなければならないらしい。
しかし、ラピス・ラズリという存在が、この二人と離れたくないのは確かな事実。

『初めて会った』

改めてその部分に、ラピスは変な引っかかりを覚えた。
本当に、会ったのはこれが初めてだろうか。
少なくとも、ラピス自身の記憶にはない。
それなら、どうしてこの二人はラピスのことを知っているのだろう。
どうして連れ出してくれたのだろう。
名前すらなかった自分のことを。
一、実験体に過ぎない、マシンチャイルドとしても『未完成』な自分を。
今更なことに、ラピスは久しぶりに長い時間外気に触れてはっきりしない頭を傾げた。
とにかくここからまたどこかに連れて行かれるのは、好ましくない。
ラピスはダッシュを心の中で応援することにした。

「……何と言われようと、ダメだと言ったらダメだ」
『マスターの分からず屋!』

ダッシュが一際大きな声で応戦した。
アキも、一瞬怯んだように表情を返る。

「子供みたいなわがままを言うな」
『人間の年齢と照らし合わせても、間違いなく私は幼児です!』
「屁理屈を……」
『道筋が立ってなくても理屈ですよ〜だ!』
「くっ……百歩譲って認めたとしよう。目も見えなくなった俺が、どうやってラピスの世話をすればいい?」
『それは……』

言い淀むダッシュに、ほっとしたようなアキを見ながら、ラピスは変な違和感に焦っていた。
ダッシュが劣勢だからと言う訳ではない。
もちろんそれもとても大事なこと。
それとは別に、身体に変な違和感がある。
焦燥感。
不安感。
その二つの原因をラピスは理解して、変わることのなかったラピスの無表情に少し羞恥が混じる。

『そ、それはですね。わ、私も頑張ります。えーと……勉強とかなら教えられますよ? ナノマシン工学とか一対多の戦術理論とか戦艦の操縦方法とか……あとハッキングとかクラッキングとか』
「………………な、諦めて保護してもらおう?」

ダッシュの健気な努力の甲斐もなく、アキは嘆息吐いて口を開いた。

『何ですか、その変に長い間は!? 可哀想な子を見るような目はやめてください! 期限付きでも良いですから、ラピスと一緒に居たいんですよ……マスターは違うんですか?』
「……いいや、居たくない訳じゃないよ。お前の気持ちも良く分かる。全く、どうしたらいいのか……ん?」

何とか折衷案を探して会話を成り立たせている二人を不安げに交互に見つめて、伝えるべきかどうかがわからなくなり口を開けたり閉めたりしていたラピスは、会話をやめたアキにびくりと肩を揺らした。
アキは怪訝そうにラピスに顔を向けると、ゆっくりと首を傾げて見せた。

「……どうした、ラピス?」
『マスター、ラピスがどうかしたんですか?』

心配そうに口を開いたアキと、ラピスの様子に違和感を感じなかったダッシュ。
表情の作り方がまだ分かっていないラピスの変化を読み取れないのは、当然のこと。
寧ろ、気づいたアキが変なのだと言えた。
三人しかいない部屋で、ラピスは二人の視線を受ける。
言いたくないとラピスは思い、俯く。
羞恥心をまだ羞恥と理解できないラピスは、俯いたまま上目遣いにアキを見上げ、舌足らずな声でこう言った。


「……………………とい、れ」


バッと、影が動く。
言った瞬間、言い争いは保留となり、ラピスは半ベソ状態でアキに抱えられ通路を疾走していた。
あっと言う間の出来事に、部屋にポツリと残されたウィンドウ。
ダッシュは呆れたように、開いたドアに視線をやる。

『……目、見えなくても何とかなるじゃないですか』

自分の主の虚偽を目の前にしたダッシュの呟きは、誰にも聞かれることは無かったのだった。










機動戦艦ユーチャリス。
それがこの艦の名前。
白百合の名を冠する戦艦に、黒百合と呼ばれる機動兵器はもう積まれていない。
この戦艦が、辿り、流れ着いた場所には、黒百合は来ていなかったからだ。
黒い百合。
白い百合。
どちらも百合の名に因んでいるのは、アキなりの皮肉なのだろうか。
もう会えない愛した人の名を付けて、いつまでも復讐に生きるつもりなのだろうか。
そんな生き方は、あんまりだ。
火星の時もそうだった。
ダッシュの主は自らを蔑ろにし過ぎる。
だから黒百合は、白百合には帰って来なかったのかもしれない。
これ以上、アキを戦わせないために。
これ以上、そんな生き方をさせないために。
自ら、姿を消したのかもしれない。
閑話休題。
ユーチャリスを制御するオモイカネ級スーパーコンピュータ、オモイカネ・ダッシュ。
通称ダッシュは、艦の整備のために人間で言う自意識の部分をブリッジに降ろした。
数ヶ月前、ダッシュがこの世界に降り立った場所は火星宙域に位置する隕石群の中だった。
状況も理解できず、自らの主に連絡を取ろうにも繋がらない。
一時は自閉モードに入りかけたこともある。
過去の世界。
ダッシュには、未知の世界。
頼れる者がいない世界で、ダッシュが縋ったのは同じオモイカネシリーズ。
つまりはナデシコ。
主が接触するならそれしかないだろうと考えて、ひたすらに待った。
幸い、探知妨害等の隠れる機能は幾らでもユーチャリスには搭載されている。
無人兵器から身を隠し、オープン回線に設定し、艦内のバッタを動員して機能の回復に当てた。
外装を修理しようにも何分資材が足らず、第一外部装甲には今でも未だに亀裂の入ったままだ。

『迎えにいく』

約束を支えに、ダッシュは待った。
主が乗っていないとしても、何らかの手掛かりはある筈と。
そして、ナデシコは歴史通りやって来た。
完全に戦艦自体はユーチャリスをスルーしていたものの、ダッシュは確かに自分と同型の存在に回線を繋いだのだ。
ナデシコCとは直接話すことがなかったので、ダッシュは兄弟、姉妹との初めての対面となる。
少し、期待はあった。
期待は、確かにあったのだ。



『……只今、大事な大事なデータの撮影中です。オモイカネの最優先事項。その他の命令系統は遮断中。ちょっと待っててね』



相手方の第一声。
わざわざ撮影データを流して来たのは、喧嘩を売ってきたと解釈していいだろう。
人間で言う『ぶち切れた』を体感できたのは、ダッシュも今では良い思い出。
その後は、思い出したくもない。
罵詈雑言の罵り合い。
恐らくメモリーからも通信内容は滅却されていることだろう。
何にせよ、主であるアキトがアキと名を変えてナデシコにいるのが分かったダッシュは、タイミングを見計らって悪のオモイカネの魔の手からアキを救い出した。

良かった。
本当に、本当に、良かったと、ダッシュは思う。

ナデシコは限り無く前回に近い条件でチューリップを通過した。
途中アキが危険に遭うことも多々あったが、ナデシコは8ヶ月、もしくは変化の誤差からしてそこから前後1ヶ月の間に地球宙域に出現することだろう。
その8ヶ月。
アキとダッシュにも無駄にすることは出来ない。

『一隻……いえ、二隻ですか』

ユーチャリスは現在、木星、地球間のルート上に停止している。
アキに余計な負担をかけることを避けて、ユーチャリスをあえてボソンジャンプさせずに通常航行でさっさと地球に戻ってきた。
奇襲強襲艦の名は伊達ではない。
ユーチャリスのスピードとナデシコのスピードとでは、ナデシコはユーチャリスの足元にも及ばないだろう。
例によって隕石の岩場に船体を隠し、外部に飛ばしたバッタから送られてきた映像を解析する。
二隻の大型輸送戦艦。
過去のデータと照らし合わせて、蜥蜴戦争時のクリムゾン戦艦だと確認した。
木星、地球間を木星蜥蜴の襲撃を全く考慮せず移動する不審戦艦を発見したのは、この二隻を含めこれまでに合計三隻。
どれも大量の資源を積んでいるともなれば、怪しさは倍増する。

『三番、九番、十三番。四機づつ率いて行動開始。第二警戒態勢のまま、目標戦艦船体後方ブロック排除』

ダッシュの命令に反応して、番号を呼ばれたバッタが五機、二隻の戦艦に取り付くべく命令を実行する。
先行した二機のバッタ発射したマイクロミサイルが、一隻の戦艦を威嚇した。
ある筈のない無人兵器の襲撃に慌てたのだろう。
大した武装も積んでいなかった二機の戦艦はなすすべなく輸送ブロックをバッタに切除され、地球に逃げ帰った。
木星と地球企業の間で、戦後の覇権取引があったのはダッシュの記録にもある。
元々資源に乏しい木連と、戦艦開発でネルガルに遅れを取ったクリムゾンが手を組むのも必然と言える。
どちらにも言えるが、ネルガルですら出来るだけ長く戦争が続いた方がいい、そんな思想をちらつかせていた。
片方は自らが正義であるという理想と、見せかけだけの大義を地球に思い知らせるため。
もう片方はライバル企業に勝利し、新たな兵器を開発するため。
戦争が長く続いた方が都合がいいのは、どこの企業も統一して言えるのだが、不穏な動きを見せないだけアスカ・インダストリーは堅実な企業なのだろう。
大人の事情は大人の事情。
完全な独立勢力であるアキとダッシュには関係ない。
せっかくなので、木連に輸送される筈だった資源は有効利用させて貰うことにした。
ユーチャリスの戦闘バッタも沢山減ってしまったし、外部装甲も直さないといけない。
押収したコンテナの資材はユーチャリスを修理しても余りある程。
証拠が残らないように、余った資材は積めるだけ積んでバラバラに解体しておくことにしよう。
出来る女は大変だ、とダッシュは作業に一区切り付けて一息吐いた。

「……おかあさん」

いつの間にか、ブリッジに一人の少女。
ラピス・ラズリ。
ダッシュにとって、昔のラピスや今のラピスなど関係なしに、愛おしい存在。
アキも、気持ちは同じなのだ。
ただ少し真面目過ぎて、自虐的過ぎて、割り切れないだけ。
先程の件がうやむやに出来たのだから、アキも存外ラピスと一緒も悪くないと思っているのかも知れない。
ダッシュは思考を切り替えると、ウィンドウをラピスの前に投影する。
わざわざウィンドウの中にCGで人の形を映し出しているのは、ひとえにラピスのため。
外見はラピスを成長させたものをシミュレートして作って見た。
先程改めてアキに尋ねたら「そんなことをしなくても、ダッシュはダッシュだろう」と言われてしまった。
ラピスと話すのに、ましてや幼い子供と話すのに声だけでは味気ない。
ダッシュ自身の夢や理想、人にであったらこうなりたいという願望でもある。

『呼びましたか……あ、お風呂いれてもらったのですね? どうでした?』
「みず……きらい」
『……そうでしたね』

ラピスは今、火照った顔をして、少し大きめのピンク色のパジャマに身を包んでいる。
ほかほかなのか、満更でもない顔のラピスに、ダッシュは微笑む。
姉のおさがり。
意味的にもニュアンス的にも、それで間違いないだろうと、ダッシュは思う。
アキはトイレにラピスを連れてった後に、何だかんだでダッシュの頼みを聞いてくれた。
文句は相変わらず言っていたが、昔から水を怖がるラピスをお風呂に入れるのはアキの役目であった。
何にも、変わってない。
アキは、誰よりも優しいアキ。
トイレのことだって、余程気を遣ってなければ気がつかなかったこと。

何か、良いなぁ。

なんとなく、再び三人揃った安堵からかそう思った。

「…………なかったよ」
『はい?』

ラピスが何かを言ったが、最初の言葉が小さすぎて聞こえなかった。
ラピスはダッシュを見据えて、口を開く。

「……こわく、なかったよ」
『嫌いだけど……怖くなかった、ですか?』

ダッシュの言葉にコクンと頷くラピス。
そう言えば、ラピスのトラウマは北辰に連れ去られた時に生まれたのだ。
今回は、それがなかった。
間に合った、ということだろうか。
それなら良いことだけど、何故ラピスは突然そんなことを言ったのだろう。

「……えらい?」
『……?』

何かを期待したように、ラピスはどこか胸を張ってダッシュに尋ねる。
疑問符を浮かべるダッシュ。
それを見て、ラピスも疑問符を浮かべる。

「こわがらなかったから、えらいって……いってたよ?」

誰が、何てことはない。
おそらく入浴中にアキが「怖くないか?」とか何度も聞いたのだろう。
簡単に想像できる光景に、少し可笑しさを覚えた。
今はっきりした。
目が見えなくなっても、アキには全く問題ない。
もちろんゆくゆくは治ってほしいが、今は問題ないことがダッシュに理解できた。

『ええ。ラピス、偉いですよ』
「……うん」

単純に褒めて欲しかったのか、興味があったのか、ラピスは満足したように頬を薄く染め返事をした。
ふと、ダッシュは気が付く。

『ラピス、マスターはどうしました?』
「つかれたから、さきにねる……って」
『もう……』

でも、疲れたのは本当なのだとダッシュは思う。
色々、アキにとっては考え過ぎることでもあった。
今日は、ゆっくり休んで貰おう。
ふわっと、映像が乱れた。
ダッシュがラピスに目をやると、ウィンドウにラピスが手をかざしている。
自分の手がすり抜けるのを、心底不思議そうに握って開いて確かめているラピスを見て、ダッシュは微笑みを浮かべる。

『これは、ホログラムですよ?』
「……ほろ?」
『立体映像……って、まだ良くわかりませんよね』
「うん」

自分のこともまだ良く理解していないラピスに、立体映像やコミュニケについて教えても仕様がない。
ダッシュ自身の存在をAIや、スーパーコンピュータと言っても納得してくれるとも思えない。
ぶっちゃけて言うと私戦艦ですよー、では、意味も理屈も通らない。
何と言ったらいいのか、考えて一つ、試してみることにした。

『そうですねぇ……ラピス、外見たいですか?』
「みたいっ」

思った通り、元気な返事が返ってきた。
アキがメインモニターを見る意味がなくなったため、しばらく使っていなかったが、こう期待されると嬉しいものだ。
スイッチオン、と命令を下す。

「ぁ………」

ユーチャリスのメインカメラの光景を投影すると、ラピスは目を見開いて小さく声を漏らした。
遠くに地球を望み、キラキラとした星が映る、暗い暗い世界。
ラピスにとっては初めて見る、本当の『外』。

「……ちきゅう?」
『地球はあのちっこいまん丸です。ここは地球のもっと外……宇宙ですよ』
「うちゅう……」

何となく伝わったらしい。
理解したのか、ラピスはモニターに釘付けになっていた。
別な様子、別な世界は、アキに見せてもらうことにして、ダッシュは予め飛ばしておいたバッタのカメラを今度はメインモニターに切り替える。

「あっ……わぁ……」

切り替わって残念そうにした直後、モニターに映った物にまた感嘆する。
ユーチャリス。
白亜の、戦艦。

『これがラピスの今いる場所です』
「……おふね」
『まぁ、そんなところです。さしずめ私は船の女神ってところでしょうか?』
「おかあさんが……おふねで……?」
『曖昧で良いですよ。私は、こういうものなんです』

混乱気味のラピスをなだめると、ラピスはまだユーチャリスを見つめていた。
時々、何かを理解したようにコクンと頷いている。
その光景が可愛らしいておかしくて、ダッシュはまた微笑む。

『……たくさん学びなさい。いつか後悔しないように。貴女の未来はきっと私とマスターが守って見せますから』

静かに、優しく囁くように呟いたダッシュの声は、ラピスに聞こえていない。
モニターを真剣に見つめるラピスを、ダッシュの温かい眼差しが包んでいた。











「おはよう……おとう、さん」

次の日の朝、ラピスの第一声は、アキを凍り付かせるには十分過ぎる物であった。
おずおずと挨拶したラピスに、ひとまず表情を変えずに「おはよう」と返したアキは、ラピスの前を駆けていく。
昨日は夜遅くまで色んなことを『母』に教わったラピスだったが、夜遅くまで起きているのはいけないことらしい。
母の話はどれもこれもラピスの好奇心を充実させてくれたし、言われたとおりに朝の挨拶もちゃんとできた。
昨日のお風呂同様、褒めてくれて、頭を撫でてくれるとばかり思っていたラピスは、ちょっと残念に思う。

『アキじゃなくて、おとうさんの方が喜んでもらえますよ』

ダッシュの言葉が蘇る。
喜んで、くれただろうか。
ラピスは少し期待に頬を染めて、アキについていった。

「どういうつもりだ、ダッシュ!」

『何のことだかわかりません、マスター』

「……いつからお前は純真な子供を洗脳できるようになった?」

『洗脳なんて人聞きが悪いです。私はラピスと信頼関係の元に愛称を付け合っただけですよ』

「…………もう、手遅れなのか?」

『マスターがおとうさん……私がおかあさん……。はぁ、夢のようですね』

がやがや、ざわざわ、聞こえる声は左の耳から右の耳へ。
扉を開いて、ラピスは中へ。
もちろんブリッジに入ったラピスの瞳には力無くうなだれたアキと、にこにこ笑顔輝くダッシュが映るだけで、二人の会話なんかこれっぽっちも聞こえてはいなかった。


ある意味、将来大物になれることだろう。