パパパパパ、と連続した発砲音。
顔を音のした空に向けると、黄色い群集に立ち向かう銀色の一機。
追従するように隊列を組むグレーの三機のロボット。
戦闘が始まったのも束の間、合計四機の人型ロボットは数分の内に群集を蹴散らし、近くの連合軍基地に帰っていく。
街に点在するビルの合間合間に見える光景は、あまりにシュール。
最近ではあまり見られなくなった『戦争風景』に、空を見上げていた首をほぐしながら「軍のパイロットもやるねぇ」などと人事のように呟いて、再び歩き出した。
地球の情勢は、明らかに移り変わりつつある。
劣勢から、拮抗へ。
防御から、反撃へ。
数ヶ月前に軍ともめ事を起こしたネルガル重工は、今では連合宇宙軍と和解し、技術面、金銭面で互いに利益をあげている。
例えば今の人型ロボット、エステバリスもそうだ。
デルフィニウムや航空戦闘機部隊に代わる新戦力として、大気圏及びビックバリア間の防御は固まり、肉眼で確認できる位置での戦闘は極端に少なくなった。
それによりエステバリスが大量に売れ、ネルガルは利益を得た。
連合軍の戦艦にも改良が施され、推進力は元より全体の性能の向上、数ヶ月後にはディストーションフィールドやグラビティ・ブラストを装備した戦艦も製造される予定になっている。
もちろん、それを一挙に引き受けるネルガルには莫大な利益が入る。
戦争で困るのは一般人だけ、という時代ではもうない。
実際に苦労するのは戦いに出る軍人さんだけで、一般人はバリアや軍人さんのおかげで変わらぬ毎日。
裏々で企業は利益の奪い合い。
武器は売れる。
兵器は売れる。
戦艦は売れる。
民間の企業は製造製品を転換し、大企業はより高性能なエンジン開発に躍起になっている。
その中でエステバリスや、新しい優れた造船技術を見せつけたネルガル重工は、一歩先に出たと言えるだろう。
商売繁盛。
新進気鋭。

「だからこそ……ここんなとこで潰されたら困るんだけどなぁ」

歩みを再び止め、手に持った資料の表に目を向け、白紙の表示を一枚めくる。

『結果報告書』

簡潔に書かれた重たい文字を見て、溜め息を吐く。
ネルガル重工は成功を掴みつつあるのだ。
出鼻を挫かれる訳にはいかない。
めくったページを戻す。
ビル街に似合わないラフな格好で自慢のロン毛をかきあげた男、アカツキ・ナガレは神妙な面持ちでその場を後にした。












「お客様。モーニングセット、お持ちいたしました」

落ち着いた雰囲気のオープンカフェの一角で、珍しく真面目な顔で資料と格闘していたアカツキ・ナガレは、ウェイトレスの声に資料を閉じる。
機密がどうこうと言うことを、気にする男ではない。
そもそも、大企業の会長がSPも連れずに街を闊歩している理由は他にある。

「ありがとう。君、どこかで会ったことないかな?」

第一に、ウェイトレスが美人であったこと。
第二に、あまりに激務が過ぎて、何かにつけて仕事をサボることが出来なくなったためである。
本来なら早朝から会長室に閉じこもっていなければならないアカツキだが、秘書の目を盗んでモーニングタイムを楽しむために脱走してきたのだった。
キラリと光る歯。
髪をかきあげて見せるも、二枚目になれない三枚目が板についてしまっている。
ウェイトレスも慣れているのか「仕事中ですので〜♪」と愛想良く笑って去っていく。

「あ、ちょっと…………はぁ」

アカツキはまた肩を落とす。
それどころではないから、こうして息抜きの間までも仕事をしているのにナンパをしていては意味がない。
ナデシコと呼ばれる戦艦が地球飛び立ったのは、数ヶ月前の話。
ナデシコと呼ばれる戦艦が火星で消息を絶ったのは、少し前の話。
部下であり右腕であったプロスペクターから最後の報告の際、ユートピアコロニー跡でイネス・フレサンジュ博士を発見し、最終目標である極冠移籍の回収に向かうとのことだったが、それっきり。
音沙汰も無く、社内は既にナデシコからのデータを元に二番艦コスモス、それに続く姉妹艦の製造にあたっている。
ナデシコの事自体は残念ではあるが、軍に公開されたエステバリスの性能も折り紙付き。
正式契約が組まれ、独占販売状態の今、問題が起きた。

「まったく、とんでもないことやってくれるよ」

発覚したのは、つい最近。
人間開発センターの地下に本社が把握していない施設が発見された。
実験内容は違法ナノマシン投与によるマシンチャイルドの大量生産。
昨今の社会では、ナノマシンにあまり良いイメージは持たれていない。
火星出身者ならまだしも、軍ですら避けて通るナノマシンの申し子であるマシンチャイルドは、道徳的に見て虐待のそれと変わらない。
人間開発センターのホシノ・ルリを始めとした国の許可を得たマシンチャイルドたちでさえ、非人道的だと声が上がるのに、ここに来て違法実験。
効果もわからないナノマシンを投与していた実験記録。
八人ものマシンチャイルドが一度に見つかった事実。
どれもこれも表沙汰にできる訳がない。
表沙汰になった時点で、ネルガルは企業争いに終わりを告げる。
かと言って、実質的な指示を施設に出していたネルガルの社長のクビを飛ばすことも出来ない。
父の代からの社長をクビにすれば社内重役からの反発に遭い、若いアカツキに付いてくる者もいなくなり、更に会社が纏まらなくなる。
一度、決定的な機会に社内の膿を取り除く必要があることを、アカツキは決意していた。

「こんな時、プロス君がいてくれたらなぁ……」

もちろん敏腕秘書に不満がある訳ではないが、年相応の貫禄と駆け引きに関してプロスがいれば上手く立ち回れたことだろう。
出身も名前も国籍も不明な八人のマシンチャイルドについては、適材適所の案を思いついたので、秘書に指示して任せてみよう。
子供たちに一般教養もついて、何より世間一般に対する最良のカモフラージュになるのだから、この上ない。
施設も廃止し、社長派に圧力もかけ会長の発言力も強まった上に、厄介でもあり貴重でもあるマシンチャイルドが八人も確保できたのだから、最初こそプラスに思えた。
最大の問題は、発覚した過程だ。

「なになにぃ……」

細かな報告会は今日の午後にちゃんとしたものを用意してあったため、アカツキは細部まで今回の事件について知らない。
激務を終えて疲れきって床に着いて早々叩き起こされて……。
半分眠った頭に滝のように言葉を浴びせかけられたのでは、理解できたことなど一握り。
大雑把な報告と不眠を乗り越えた寝ぼけ眼のままで社長をやりこめた自分を誉めてやりたい。
報告会などと仰々しく言っても秘書とアカツキで、現場の生存者に話を聞くだけ。
それまでに、飛ばしていた現場の詳しい報告のページくらいは読んでおこうと、未読のページをめくる。

『深夜00:35。匿名から連絡により違法実験施設に関するデータを入手、SSが急行したところマシンチャイルドの実験施設を確認。その際、同時に右足を負傷した研究員を一名救助』
『救出したマシンチャイルドは八名。いずれも試験管から出され白い布を羽織った状態であり、若干の精神不安定を除いて極めて健康』
『同研究施設データから、施設内にはもう一名のマシンチャイルドが存在することを確認。SSチームが全力で捜索中』
『施設内に何者かが侵入したと推測される。行方不明のマシンチャイルドと関連性があると思われる』

次々と重要部分を脳内でピックアップしていくアカツキ。
これが最大の問題であり、最大の謎。
ネルガル本社に連絡してきた『匿名』の存在である。
ざっと報告書を見たところ、おそらく侵入者と同一人物だということは誰にでも想像がつく。
その人物が何故、アカツキも知らない極秘施設の存在を知っていたのか。
知っていて何故、あえてアカツキ側に連絡し、もみ消すチャンスを与えたのか。
負傷した研究員。
わざわざ防寒対策まで施されたマシンチャイルドたち。
行方不明のマシンチャイルド。
はっきり言って、確たる目的があるのかもわからない。
あったとすれば行方不明、もしくは誘拐されたマシンチャイルド。
何にせよ、この人物が持っている情報を公開されるだけでネルガルは終わる。
行方不明者共々、早急に確保しなければならない。
「SSチームは増員っと」と呟いて、コーヒーを啜りながら次のページに進むと、アカツキは豪快に口に含んだ黒い液体を吹き出した。

「ギャグ……のつもりかな?」

口元と軽く汚れた書類を拭きながら、資料に目を落とす。

『監視カメラからの侵入者の容姿』

黒い。
黒い以外の形容詞が浮かばない程、黒い人物だった。
バイザー、黒服、黒マント、おまけに靴に手袋まで真っ黒な男が移っていた。
元々必要ないと判断したのか中央通路の一つにしかカメラは無かったため、微妙な映り方ではあるが付いていく少女の姿も見える。
比較的、若い男性。
ただの神出鬼没のコスプレイヤー、だったならとっくの昔に確保できている筈だ。
伊達にこの数日、ネルガルの精鋭たちから逃げ回っていられる程の人物。
情報やこういった潜入工作技術、総合的に見てもプロスペクターに並ぶのではないだろうか。

「ま、何にせよ、早く捕まえないと…………ってあれ? 僕個人に連絡ってことは、上手くすれば……」

味方に引き込めるのでは。
火星で消息を経ったプロスが帰るにしろ帰らないにしろ、穴埋めが必要になってくる。
この人物はネルガル、ひいてはアカツキ寄りの人間のようだ。
SSチームになるべく無傷で捕らえるように命令文書でも書いとくか、と打算を巡らしてページを進める。
次にアカツキの目に入ったのは、少年の顔写真だった。
あどけなさを持ちつつも、表情の無い少年。
今回のマシンチャイルドの写真らしい。
写真以外のデータはアカツキが見てもわからないものなので、写真だけをペラペラめくっていく。
どの子供も冷たく、表情が無い。

「……酷いことするねぇ」

立場上、人のことも言えない。
苦虫を噛んだような顔をして、アカツキは最後のページをめくった。
薄い桃色の髪に琥珀色をした、一人の少女の写真。
『研究施設内データより、行方不明者』と書かれている。
黒い人物が連れていったマシンチャイルド。
何故、この子だけ。
侵入者写真を見ると、連れ去られたというよりも、むしろ付いていったように見えるのは、アカツキの主観によるせいだろうか。
まだ、二人共々見つからない。
このことを口外するつもりないからこそ、もみ消すチャンスをアカツキに与えたのはわかっている。
わかんないなぁ、と思いカップに口をつけるとコーヒーカップは空になっていた。
丁度、ドアに付いたベルを鳴らして店内に入る小さな人影と交差してウェイトレスが外を通りかかる。

「あ、ごめん君、コーヒーをおかわ………………ん?」

今、何か、引っ掛かった。
アカツキは言葉を止める。

「お客様、お呼びになりましたか?」
「……コーヒーのおかわりお願いしたいんだけど」
「かしこまりました。少々お待ちください」

ウェイトレスが去っていく店内を凝視する。
何もおかしいことはない。
朝も少し過ぎてもう人通りも少ない。
店内にもお客様は少なく、見るからに裕福そうな服を着た老夫婦や端末で作業するバリバリの営業マン、可愛らしいリュックを背負った白いワンピースの少女がレジで注文しているだけである。

「…………今のところ、もう一回」

レジで注文しているだけである。

「もうちょい戻って」

銀とグレーのロボットが黄色い群集に。

「戻り過ぎ」

……可愛らしいリュックを背負った白いワンピースの少女。

「……………………」

ひとしきり独り言を終え、周囲から変な目で見られたであろうアカツキは、無言でペラペラと資料をめくり始める。
一枚の写真を取り出すと、視線の先の人物と比べて、声も出さんばかりに自分の目を見開いた。











ラピスは自分よりもずっと大きな扉を開こうと手に力を込めると、案外扉はすんなり開いた。
小さいラピスを見て、反対からウェイトレスさんが押してくれたのだ。
ちょこんと頭を下げると、ラピスはカウンターに向かう。
大丈夫だ。
全部上手く行っている。
マネーカードは持ってるし、難関かと思われた入り口も開いた。
困った時は『おかあさん』に相談するように言われている。
右手につけられたコミュニケと呼ばれる機械を確かめる。
これがあればいつでもどこでもダッシュと話ができるらしい。
安心だ。
ラピスはほっと息を吐く。
カウンターを見つけて元気に小走りで向かうと、ラピスは表情を濁した。

「……たかい」

カウンターが、高い。
ちょうどラピスの頭まで隠れる程の大きさがあり、これでは向こうは気づいてくれないだろう。
困った。
どうしよう。
ラピスが何とかしようと背伸びしていると、肩をちょんちょんとされる。
そっちを向くと扉を押してくれたウェイトレスさんだった。
髪を後ろで纏めたウェイトレスは、可愛らしいものを見るようにしゃがんで目線を合わせラピスに微笑みかけている。

「……どうしたの?」
「あ、あの……とどかない」
「注文かな?」
「うん」
「私でいいよ、どれにする?」

しどろもどろなラピスとやり取りをしながらも、ウェイトレスはラピスに「ゆっくりでいいよ」と笑いかける。
ラピスも少し安心して、母に教わった困った時の深呼吸を試みてから、上のメニューを見て口を開く。

「さんどいっち……ください」
「ん、わかった。サンドイッチ一つね……君、一人?」
「うん」
「お使い? 小さいのに偉いね」

口調のクールなウェイトレスは顔をにへらっと崩して笑うと、ラピスの頭を二、三度撫でる。
ラピスは戸惑いながら、撫でられた部分を触っていた。

「ふふ、じゃ、すぐ出来るからちょっと待っててね」
「うんっ!」

元気に返事をしたラピスを確認すると、ウェイトレスは満足げに頷いてカウンターの奥に消えていった。
出来た。
最終関門突破。
後は待つだけだ。
『初めてのおつかい』は成功した。
提案した母は何か惹かれるフレーズなのかノリノリでラピスを送り出し、父は最後まで納得がいっていなかったが、これで安心してくれるだろう。
ラピスの父は、目が見えない。
母は『えーあい』という妖精みたいな存在らしくて、実体はないと言っていた。
したがって、どうしても買い物は父の仕事になってしまう。
毎回毎回、父が困った顔で買い物する様子を見ていたラピスは、今日こそはと「わたしがいく」と言ったのである。
まだ父と母と出会って数日だけれど、ラピスは二人を信頼し大事に想っていた。
二人が自分を心配し、信頼し、大事に想ってくれているのがわかったからだ。
沢山のことを教えてくれる母に、あんまり喋らないけど優しい父。
ラピスは、今だからこそ、自分が本当に欲しかったものが分かる気がした。
あたたかさ。
今までは、分からなかった。
それが、今は分かる。
見えないけど、存在する繋がりのようなもの。
父は大変だから、役に立てるように自分も頑張らなければならないと。
今日のラピスの髪は、先ほどのウェイトレスのように後ろで纏められている。
毎日起こしてもらって、低血圧でぼんやりのラピスの髪をとかしてから纏めてもらって、ご飯を用意してもらって、勉強教えてもらって、お風呂に入れてもらって、寝る前にお話までしてもらう身の上としては、ラピスも何かしてあげたい気持ちになる。
母とも相談した結果、それで『おつかい』。
父は離れた広場で待っていてくれている。
急ごう。
急いでもサンドイッチは来ないのだけど、ラピスも早く二人に会いたいためか落ち着かない。
そこでハッとラピスは気付く。
「お持ち帰りで」と言う台詞を忘れていたのだ。
動揺していたせいか、肝心なことを忘れてしまった。
言おうにも、遅いのかなぁ、とラピスは躊躇う。
大変だ。
どうしよう。
カウンターの奥に入っていったウェイトレスを思い出し、伝えにいこうと反転すると、ぽふっ、と紙袋がラピスの腕に乗っけられた。
目の前にはさっきと同じウェイトレスがしゃがんで笑っている。

「おまちどおさま」
「え、あ、おもちかえりに」
「うん。お持ち帰りにしといたよ。君、そわそわしてたし、待ってる人いるんでしょ?」
「うん……その、これ」

予想外の出来事にパニックを起こしながら、ラピスはマネーカードをウェイトレスに渡そうとする。
渡す過程で、両手が塞がっているのが分かったのかウェイトレスは紙袋を持ってくれた。
何から何まで。
何となく、自分が立派なところをアピールに来た筈のラピスは恥ずかしくなって頬を薄く染める。
マネーカードを受け取ったウェイトレスが会計を終えると、ラピスにカードを渡して再び紙袋を渡す。

「ありがとうござました、小さなお客様」

にっこり笑ってラピスの頭を撫でるウェイトレスを、ちょっと格好いいとラピスは思う。
後でおかあさんとおとうさんに話してみよう。
ラピスは紙袋を両手で持つと、出口に向かってトットットッと、駆け足する。
ふと、ラピスは扉の前で振り返る。
ラピスをしゃがんで見送っていたウェイトレスは、不思議そうにラピスを見ていた。

「……ありがとう、ございました」

ちょこんと頭を下げる。
礼儀正しいのは教育の賜物だとか、昨日母が父に言っていたが、どうだろう。
ウェイトレスは驚いたようにした後、「また来てね」と笑顔で手を振った。
ラピスは最後にこくんと頷いて、店を出た。










ラピスは店を出るとすぐに、腕についたコミュニケを操作しようとするが、荷物が邪魔をして上手くいかない。
小さめの袋ではあれども、ラピスにはまだ身に余る大きさだ。
リュックがあったのを思い出し、これに入れようと一度背中から降ろす。

「君、ちょっといいかな?」

突然声をかけられて、ラピスはビクッとする。
顔を上げると、薄そうな服装を着た男の人が立っていた。
男の人なのに髪が長い。
変なの。
ラピスは手早くサンドイッチをリュックにしまうと、もう一度男を向いて口を開く。

「よくない」

面食らったように男が表情を変えると、ラピスは無視して歩きだした。
それよりも早く、男はラピスの前に回り込んだ。

「おっと、そうはいかないよ。君がどこから来たのか教えてほしいだけさ」
「……おしえない」
「君、この男の人知らないかなぁ?」

髪の長い男がラピスの前に出したのは一枚の写真だった。
一人の男性と一人の少女の写真。
間違いなく、父と自分の姿。
動揺。
いけない。

「…………」

ラピスは口を閉じたが、男はラピスの表情が動いたのを見逃さなかった。

「案内、してくれない?」

人の良さそうな笑顔を張り付けた表情の男は、ラピスにゆっくりと問いかける。
違う。
こんなのは笑顔じゃない。
ラピスは知っている。
本当の笑顔というのは、さっきの店のお姉さんや、母や、時々だけど父が見せてくれる、もっと優しいもの。
自分は、まだ上手くできないけど、それくらい知っている。
この人は、良い人じゃない。
恐い、人間。
研究所でラピスを見ていた人間と、同じ感じがする。
物を見る視線で自分を見て、自分を傷つける。
この人が話しかけているのは人形だ。
壊れ物でも扱うように、人形とでも、話すかのように。
今までは、それが当たり前だった。
痛くて、恐くて、寂しくて。
今は、違う。
今、自分は『外の世界』にいる。
自分は今、人形じゃない。
ラピス・ラズリだ。
ラピスは覚悟を決めて返事をする。

「いや」
「……僕も、手荒なことはしたくないんだけど」

男の表情がピクリとして、少し不愉快そうな顔になる。
怖い。
恐い。
頼れる人は周りにいない。
男が手をラピスに向けて伸ばしてくる。
逃げようとするも、既に回り込まれた後だ。
一歩あとに下がる。
男も前にでる。
捕まる、とラピスが思った、その時だった。

『ラピス〜、どうでしたか? 買えましたか? あんまりマスターが見てこい見てこいって言うものですから、でも私はラピスを信じていましたよ。マスターも心配し過ぎで…………ラピス、どうしました?』

ラピスと男の間に、一枚のウィンドウが割り込んだ。
薄い桃色。
琥珀色の瞳。
自分と同じ色の、自分より大きな女性。
母である、ダッシュ。
男は急に現れたホログラムに驚いたのか、ズサッと勢いよくラピスから距離をとる。
助かった。
ラピスは安堵から少し涙目になってしまったのだが、ダッシュはこの状況に気付かずラピスが心細かったものと勘違いしてにこやかに笑う。

『もう、ラピスもどうしたんですか。マスターなんか、嫌な予感がする、とか言って急かすんですよ? 心配なら心配って言えばいいのに……』

ラピスを安心させるかのように、アキの様子を話し出すダッシュ。
父の、嫌な予感。
肝心な時はやはり『おとうさん』の方が頼りになるのではと、ラピスの中で二人のパワーバランス認識は大きく傾いたのだが、ダッシュは気付く様子もなく話し続けている。

「おかあさん……あのね」
『それで……あ、はい。何でしょう?』
「ん」
『後ろ……何かあるんですか?』

声と共に、ウィンドウを指差すラピス。
正確には、ウィンドウの後ろで身構えている男を。
ダッシュは不思議そうにラピスを見てからゆっくりくるりと一回転すると、男と目を合わせて、双方固まっていた。

「まさか、これはウィンドウ!? 船外でどうやって、それにそのコミュニケはウチ製品……」
『あ、あなたはーーーーーっ!?』

驚き方はそれぞれ。
ラピスはダッシュの背後から男を指差し絶叫するダッシュを見つめる。
おかあさんの、知り合い?
ラピスは聞ける余裕もなく、口を閉じていた。
大声、といってもラピスの腕から聞こえる声に男が怯んだ隙にダッシュが反転する。

『ラピス、何もされませんでしたか!? いいえ、何されました!?』
「え、お、おとうさんのところに……」
『連れてけって言ったんですね!? さ、さすがマスター、私なんかでは足元にも……それよりラピス、逃げます。なるべく急いでください』

最早されたこと前提に会話を始めたダッシュの剣幕に驚きながら、ラピスはダッシュの支持する方へ走る。
瞬間、コミュニケと反対のラピスの腕が再び掴まれそうになる。
強くは掴む気はなかったろうが、ラピスを恐怖させるには十分。

「ま、待て! 君たちは……」
「やっ!」

蹴る。
反射的に、向こう臑をかかとで。
男は反撃する訳にもいかず微妙な表情を浮かべながら、手を引っ込めた。

『ナイスキック! 皆さん、ここに変態がいますよーっ! ラピス、復唱!』
「……へ、へんたいー」

トドメとばかりにダッシュがスピーカーから思いっきり声をあげると、通行人や周りから注目が集まってくる。
注目の視線の先には、幼い少女に手を伸ばすロン毛の男と、大声で助けを求める少女。
都合の良いように、ダッシュを映したウィンドウは消えていた。
つまりこの瞬間、一人の犯罪者が生まれたことになる。

「ち、違うよ! 君たちは何か誤解をして――」
「――ちゃん、警察呼んで!」

男の弁解も最早無駄。
ウェイトレスの一人が携帯端末で連絡を取り、もう一人が男に向かう。
ラピスはそれを後目に、人垣を分けて走る。
振り返ってみると、携帯端末のウェイトレスはラピスにばいばいと手を振っていた。
さっきの、お姉さんだ。
ラピスはちょこんと礼を返して、混乱し始めた場を走り去った。










「おかあさん、へんたい……ってなに?」
『最悪最低、人間社会に置ける塵のような存在ですよ』

現場を離れて父の待つ広場へ向かう。
大分離れたし、ファンファンとなる赤いランプが道路を通っていったあたりでダッシュが『安心して大丈夫ですよ』と言ってきた。

「……よく、わかんない」
『そうですねぇ……ま、いいじゃないですか。お父さん心配してますよ』
「うんっ!」

遅くなってしまった。
ラピスも早く戻って安心させたいし、褒めてもらいたい。
ラピスは顔に小さなぎこちない笑顔をが浮かんでいた。



それはそれとして教育上悪いので、変態については頑なにはぐらかすダッシュ。
彼女でも、アキに叱られるのはおっかないのである。