足音は早く、わき目も振らずに走る。
ビルの間の路地を通り抜け、大通りからまた路地へ。
意図してジグザグに走っているつもりはないが、追いかける方は大変だろう。
さらに脚に力を込め、スピードをあげる。

「ぁっ、おと、さ……はやぃ……うぅ」
「もう少しの我慢だ……頑張れるか?」
「う、うん……がんば、る」

背中から聞こえた非難の声に律儀に応じると、ラピスを背中に背負ったアキはまた路地を曲がる。
ラピスは小さな手でアキの肩にギュッとしがみつき、スピードに耐えていた。
だから嫌な予感がすると言ったんだ、と今更なことを言ってもしようがない。
甘く見てしまったアキに責任がある。
アキを追いかける追っ手はまだ引き離せない。

『まさか公僕に捕まる寸前にシークレット・サービスを呼ぶなんて……あの男、やりますね』
「……警察沙汰にしたのか?」
『当然です。ラピスに触ろうとしたんですよ? こんな小さい子まで利用しようとしたんですから、あの男は捕まってしかるべきかと……お怒りですか?』
「いや、良くやってくれた」

アキの言葉にホッとしたのか、ダッシュは一度会話をやめた。
おつかいに行ったらラピスが心配で、ダッシュに様子を見るように言ってみれば、案の定悪い事態になっていた。
帰りにアカツキと鉢合わせになって、何とか逃げてきたことを聞いていたアキだったが、ダッシュに事情を聞いている途中、ファンファンとサイレンを鳴らしながら往復していった車両にアカツキが乗せられていたのだろう、と理解する。
ネルガル会長に、幼女誘拐未遂という前科があるのでは色々まずい。
そのあたりの心配は敏腕秘書やSSチームが圧力をかけてもみ消しに全力を入れる筈なので問題ないのだが、目下アキの問題は後方から迫る二つの気配。
シークレット・サービス。
ネルガル重工の暗部と言っても過言ではなく、訓練の度合いも廃れきった連合軍人とは比べ物にもならない。
人間開発センターでアキが迎撃できたのは、ひとえに地球人には未知の木連式柔と相手が一人であったからこそ。
今回の相手は二人。
おまけに背中にはラピス。
更に言えば、二対一でネルガルSSに勝つ自信はアキにはない
例えラピスを背負っていなくても、アキが勝つことは難しいだろう。
と言う事情で、アキは全力で逃げているのだが、如何せん距離が離せない。

「こちらが不利か……軽くぶつかって分散できればな……」
『……マスター、あまり無理をしてはお身体に障ります。ラピスを背負っていることを忘れないでください』

もちろん、忘れる訳がない。
例えばぶつかったとして分散させられなければ、ただラピスを危険に晒すことになる。
少しでもリスクがある行動は取れない。

「わかっている。跳ぶぞ」
『了解。座標はマスターが、私はサポートします』

サポート。
リンクシステム。
残念ながら、今のアキからは切っても切り離せない単語。
ダッシュに地図上から指示をもらわなければ、こうして走ることもままならない。
情けなく思うのは、後から。
今はこの場を離脱することが最優先。
イメージを固め、集中。
対人用フィールドでラピスとアキを囲んで跳躍準備は完了。

「ラピス」
「……うん」

移動の度に必要となる動作なので、ラピスも慣れたように目を瞑る。
戦艦級の大きな物ならまだしも、大人一人と子供一人運ぶのでは負担も大きく違う。
実質、大人一人はアキ自身なので子供一人分が増えたに過ぎない。
体力の消耗は、かなり軽微に抑えることができる。
最後にアキは、追っ手を気にせず足を止めた。
ユーチャリスでしっかり補充したチューリップ・クリスタルを取り出すと、片手ではじく。

「……ジャンプ」

浮遊感が体を包む。
淡い光が足元から包み込み、アキとラピスの姿は、文字通り『その場』から消え去った。









再びラピスが目を開けると、目に移る風景は一変していた。
青い空。
サンサンと自らを照らす太陽。
白い砂浜。
大量の水。
雑居していた高層ビルは何処へいってしまったのか。
そこは間違いなく『海』と呼称される場所だった。

「……無事、着いたか」
『わぁ〜、海…………って何でこんなとこに来たんですか?』
「ん、何となくな。ラピス、もう降りても大丈夫だ」

ラピスは名前を呼ばれてハッと正気に戻る。
また、見入ってしまったようだ。
ここも、『外』。
宇宙も、地球も、ビル街も、ユーチャリスも、この海も。
ラピスにとって、閉鎖された空間の外側と言う意味では同じ認識として捉えていた。
新しい、『外』に出会えたことに、ラピスは純粋な感動を覚える。
屈んでラピスを降ろすと、アキはそのまま砂浜に座り込んでしまった。
ラピスも寄って、隣にちょこんと座り込んだ。
砂浜の感想。
あっつい。
熱さからラピスが再度立ち上がる様子に気が付いてくれたのか、アキは胡座をかいた自分の膝をぽんぽんと叩いて見せた。
ラピスは遠慮がちに腰掛ける。

「……へん」
「変……か?」

ラピスが口を開くと、第一声はそれだった。
変だ。
自分はビルの立ち並ぶ街にいた。
買い物に来ていた。
来る時も、帰る時も、目を瞑ると光景は変わって、家だったり街だったりした。
毎回毎回思う。
それは、変だと。

「ばしょ、ちがう」
「まぁ、そうだな。暑かったか?」
「ううん。かぜ……すずしい」

日差しは強いものの、気温はさほど高くない。
自然の心地よさを感じつつ、目の前に広がる光景を楽しむ。
ラピスはリュックを下ろして、前に置くと、背中をアキに預けた。
違う。
何だか、上手く誤魔化された感じがした。
ラピスの顔が上を向く。
じぃっと、無言で大きな瞳がアキを見つめた。

「……………」
「……………ほら、サンドイッチ食べたらどうだ?」

そうだった。
リュックからサンドイッチを取り出すと、ラピスは一口頬張る。
美味しい。
いつもの食事は買って帰るので、外で食べるのは初めてだ。
二口、三口と頬張って、良く噛む。
ラピスのような人間はいっぱい物を食べるとダッシュに言われたけれど、ラピスも例外なく良く食べる。
あっという間に、口の中に消えていく。
そう言えばおつかいの件、まだ褒めて貰って…………ではない。
ジトッとした瞳で、非難するように少し頬を膨らますとアキを見る。

「ごまかした……?」
「いや……口、汚れているぞ」
「ん……」

黒いハンカチで口元を拭われて、ラピスは黙って拭いてもらった。
丁寧に。
優しく。
アキに触れられていると、何故だか曖昧な思考になってしまう。
まただ。
これではいつもと一緒だ。
ラピスは目を覚ますようにふるふると自分の頭を振ると、再度アキに顔を向ける。

「うぅ、ちがう。へん、なの」
「君は……なかなか頑固だな」
「おとうさん……ずるい」
「だから、俺はお父さんじゃないと……」
「おとうさんじゃ……だめ?」
「…………う」

本当の父も母もいないのは、ラピスも何となく理解している。
この人たちは、自分を助けてくれた人でしかない。
それでも、ラピスにとって父と母と呼べる唯一の存在。
代わりじゃなくて、代わりなんか存在しない人たち。
唯一無二の、存在。
それを否定されるのは、悲しい。
独りは、冷たい。
アキの言葉に、ラピスが涙を目に溜めると、アキは慌てたようにラピスの頭に手を置いた。

「ラピス、その、わかったから……呼ぶだけなら、俺は構わない……好きにしていい」
「うんっ!」

撫でられる感触を楽しみながら、ラピスは目を閉じた。
研究所にいたら、一生、こんな経験はできなかっただろうか。
父と呼べる人、母と呼べる人。
今、この場所にあることが、心地いい。
綺麗な海を半分眠った眼で見ながら、ラピスはゆっくりと再び目を開いた。
アキの格好は、黒いシャツに黒いズボン。
こんなに日が強いのに、黒いロングコートを羽織っている。
バイザーこそいつもと一緒だけど、いつもより柔らかい印象を受けた。
ラピスは自分の薄手のワンピースとアキの格好を比べるように見て、口を開く。

「あつく、ないの?」
「暑い。いつもの格好よりはマシだ」

暑いなら、何で黒ばっかりごっそりと着るんだろう。
アキは汗を流している様子もなく、寧ろ涼しげに見える。
やせ我慢なのか、意地なのか、ラピスにはわからなかった。
ただ、これだけは言える。

「いつものほうが……かっこいい」
「…………あのマントが、か?」
「うん」
「そうか……マントが……」

格好いい。
マントのヒラヒラも、ポケットがいっぱいある服も。
無邪気なラピスが応えに、アキは驚いたようにしながらもそっぽを向き、ぶつぶつと何か納得した感じで小さな声で呟いている。
その表情は、どことなく嬉しそうだ。
ラピスも伝えたいことを伝えて満足した。
アキの膝の上から海を鑑賞する。

「……うみ」
「……そうだな」
「……きれい」
「……それは良かった」

二人共ぼーっとして、海を眺める。
波がゆらゆら。
行ったり来たり。
砂浜で光ってるのは貝だろうか。
本当は海に突っ込んで行きたくて、砂浜を駆け回りたくて、興味津々なのだけれど、折角アキに座ったのだから動く気持ちにもならない。
ラピスは行動する気を捨てて目を瞑り、自重を完全にアキに……。

『わぁーーーっ!わ、わぁーーーっ!もう、何なんですかあなたたちはっ!親娘仲が良すぎますよ!マスターもラピスばっかり……いいえ、何でもありません!私もっ!私も構ってくださいっ!』

静かな砂浜に突然の大声。
ラピスは閉じかけた瞳をビクッと開き、アキも同様に突如現れたウィンドウに驚いていた。
何だか、ウィンドウのダッシュはご立腹な様子。
ラピスはきょとんとした顔で首を傾げた。

「ダ、ダッシュ……どうした?」
『どうしたもこうしたもありませんよ!何ですかその雰囲気っ!二人共何でもそんなに天然さんな……ううぅ〜!』

口惜しいとばかりに、表情をころころ変えるダッシュ。
ちょっと、楽しい。
ラピスはやり取りを傍観する。

「…………何がだ?」
『初めて格好誉められたからって、そんなに喜ぶことないでしょう!?隠してもわかります!ラピスもラピスで、すっかり誤魔化されてるじゃないですか!?』
「む……」
「あ……」

思い出した。
変、なんだ。
アキを問い詰めていた筈なのに、いつの間にかそんなことはラピスの頭の端にも残っていなかった。
アキはアキで照れたような、恥ずかしいような、「余計なことを……」とでも言いたげな表情。

「喜んでなんかいない」
『嘘っ!何照れてるんですか!?せっかくの一家団欒なのに私をスルーしてましたね!?大体マスターは極端なんですよ、過保護だし…………』

こうなると、ダッシュのお説教は長くなる。
がみがみという表現が相応しいダッシュ、それに怒られるアキ。
ラピスが「むぅ〜…」と唸って耳を塞いでいると、ぽふっと何かが頭の上に被さった。
でっかい帽子。
ラピスの髪と同じピンク色のリボンの付いた、大きな麦藁帽子。
あんな格好のどこに持っていたのか、アキは苦笑してラピスの頭に手を置くとこそこそと顔を寄せた。

「……俺が何とかしておく。海、行ってきていいぞ」
「……いいの?」
「ああ、あんまり遠くにはいくなよ?」
「うん、わかった」

ダッシュが気付かない内にそろそろと海岸に走る。
アキが隠すように重なっていたこと、ダッシュが語るのに熱中していたこともあって、上手く抜け出せた。
はしゃいで駆け出すラピスの頭には、当然『へん』なんてことは残っていない。
結果的に誤魔化されたことにラピスが気付くのは、それからずっと後のことになるだろう。








『まったく……マスター、どうしちゃったんですか?』

お説教の終わったダッシュはしみじみとした様子でアキに話しかける。
ダッシュの視線の先には、波が引いてはそれを追いかけ、波が来れば逃げるを楽しそうに繰り返す大きな麦藁帽子のラピスがいた。
無邪気に。
無垢に。
興味のままに。
アキは座り込んだまま、見えない目でその方向を見据えていた。

「……どうもしない」
『帽子まで持って来てたんですから、初めからここに寄る予定だったんでしょう? 今日、ラピスをネルガルに返すってマスター言ってたじゃないですか』
「…………」

ここは、テニシアン島。
赤道直下の島で、今はクリムゾンのご令嬢の邸宅が島の反対にあるだけの島だ。
一度だけ、アキはここに来たことがある島。
アキの中では、今日ラピスがおつかいから帰ったら、ラピスとはお別れの予定だった。
帽子だって、何のことはない。
別れ際にでも、渡して置こうと考えただけだ。
本当に、それだけだ。
だけれども、ラピスの危険を聞いた時、アキは無意識にラピスを背負ってしまった。
その小さな体を。
再び、背負ってしまった。
引き渡す何て考えは、その時消えていたのかも知れない。
守らなくちゃ、いけない気がした。
いずれ離れるにしろ、まだいいと妥協し、ラピスを背負ってテニシアン島まで跳躍して。
ダッシュの言う通り、どうしたのだろう。
最近、アキ自身でも何をしたいのかわからない時がある。
何をすればいいのか、わからない時がある。
あの子の為に、自分は関わるべきではないとアキはわかっていた。
その中で『あの子の為』とは何なのだろうと考え、『あの子の為』に、これからもダッシュといた方がいいのでないかと考えもする。
最後の決断で、結局アキは自分のわがままを通してしまったのだ。
アキはため息を吐いて、バイザーを押さえると、口を開いた。

「……あの子がな」
『はい』
「この間、寝る前に海が見たいって言ったんだ」

どこで聞いてきたのか、アキが寝かしつける際、ラピスはアキに言った。
海が見たい。
簡単な願いだ。
アキなら、ぱっと叶えることができる。
無邪気な微笑で、本人も気付いていない微笑で、ラピスはアキに頼んだのだ。
約束だ、ゆびきりだ、と誰かさんのようにせがんで来て、応じるまで寝ないと言うラピスにゆびきりをしてやると、ラピスはそのまま安心したように眠りについた。
改めてて確認する。
今日、ラピスはネルガルに行く予定だった。
結果として、アキにはそれを実行することができなかった。
行ってしまえば、ネルガル本社からは出られなくなる。
海は、少なくとも見れなくなる。
馬鹿みたいな理由、とはアキには言えない。
本当に寝る前の出来事だったから、ラピス自身覚えていないかも知れない。
それでも約束した以上、馬鹿な理由なんて言わせない。
結局これは『あの子の為』にならない行動。
ラピスのわがままを聞いた訳でもなく、ダッシュのわがままを聞いた訳でもない。
アキ自身のわがままで、ラピスを連れて戻って来たのだ。
約束。
前のラピスとは、守るどころか約束すらしたことがなかった。
だから、ラピスから聞いた初めての願いが強く頭に残る。
彼女が何かを頼んで来たのは、初めてだった。
アキは顔を伏せて口を開く。

「俺はそれを叶えたかった……それだけだ」
『…………マスター』
「ダッシュ……俺は間違っているのか? 何も、するべきじゃなかったか? 俺は……」
『もっと……柔らかく考えてもいいんじゃないでしょうか?』

アキの言葉を、ダッシュは途中で遮った。
アキがダッシュをある程度理解できるように、ダッシュもアキをある程度理解できる。
お互い、『ああなると』が見えてくる。
アキの場合、泥沼にはまっていく。
自分を憎んで、自分に責任を浴びせて。
ダッシュは、良い意味でのアキのストッパーと言えるのだろう。
憂いだ表情でダッシュはアキを見ている。

「柔らかく……?」
『こう考えてください……一度、私たちは死にました』
「…………」

アキもダッシュの言おうとすることはわかる。
火星の後継者。
最後の戦いで、アキとダッシュは死んだ。
少なくとも、『あの世界』では。
実際、生き延びてしまったアキの観点からすれば、死んでしまったのは『あの世界』。
ダッシュは言葉を続ける。

『私たちは生まれ変わったとします。マスターにとって、この世界と前の世界は同じですか?』
「……いや、違う」

この世界は、一回きり。
この世界にはこの世界の流れるべき歴史がある。
アキという要素を加えた時点で、全く同じな世界になる筈がない。
同じ人物でも、誰もアキを知らない。
同じ星でも、何もかもがアキのいた時代とは違う。
限りなく似ている、全く違う世界。
大筋を知っているだけのアキが、自由にできることなど何もない。

『戻ってきちゃった責任なんか、マスターが背負うことないんですよ』
「責任は……俺にあるだろう」
『あ・り・ま・せ・んっ!誰にも、責任なんかありません!もー、ただでさえ頑固なんですから、少し肩肘張らずにいきましょうよ?』

頬を膨らましているであろうダッシュの言葉に、アキは顔を上げる。

「肩肘張らずに……か」
『肩肘張らずに……です』

何となく呟き、何となく返された。
張っていたつもりは、アキにはない。
まだ納得がいかないようなアキに、ダッシュは声をかける。

『ラピス……喜んでますよ』
「……そうか」
『大切な人に干渉して、何が悪いんですか? マスターがしてあげたいって思うことをして、何がいけませんか? もっと、マスターはわがまま言っていいんです』

アキはダッシュの言葉を聞いて、しばらく黙ったままラピスの方向に顔を向けていた。
悩んでも、答えなんか有りはしない。
正しいこと。
そんなものは、存在しない。
精一杯、自分ができることをする。
アキは再びナデシコに乗って、そう思った筈だ。

「……間違っても、いいのか?」

ポツリと、呟いた。

『今日の出来事を間違いだと言うのなら、貴方の間違いを、私は間違いだとは思いません』

アキの言葉に間を空けることなく、ダッシュが言葉を返す。
アキは苦笑して、ダッシュも心なしか表情に安堵を浮かべている。

「俺のせいで、お前を頼るかも知れないぞ?」
『今更何言ってんですか。貴方は、独りじゃないんですよ? ……今までも、いつまでも、私が一緒にいます。本当に貴方が間違いそうな時は、私も一声意見します』
「そうだな……」
『二人で行きましょう、どこまでも』
「……ありがとう」

アキの無意識の内に出た礼に、ダッシュはびっくりしたように表情を変える。
それから、お互いに慌てて、気恥ずかしい様子で顔を伏せた。
いつも冗談混じりなダッシュだけに、真っ直ぐなことを言うと、恥ずかしい。
ダッシュには憎まれ口ばかりアキも、油断して素直に礼を言ってしまって、恥ずかしい。

『わ、私は、生まれた瞬間からマスターのパートナーですから、当然のことです!』
「……お節介焼きだけどな」
『もうっ、お節介じゃありませんよ!』

ダッシュとアキはお互い誤魔化し笑いを浮かべて、一通り言葉を交わすと黙り合った。

『……マスター』

不自然な間を裂くように、ダッシュはアキを呼ぶ。
アキは、首を傾げる。

「ん?」
『…………ありがとうございます』
「……突然、何だ?」
『私も……言いたくなっただけです』

せっかく気恥ずかしい雰囲気が終わったのにまた盛り返すのかと、アキは苦笑する。
ダッシュも『あははは〜』と照れ笑いして、結局お互い気まずくなった。
何となく、慣れない。
何か話題は無いかと頭を巡らし、何にも無いので取りあえず話そうとアキは口を開く。

「ダッシュ」
『マスター』




「おとうさんっ、おかあさ……」




二人共同じ考えだったのか、お互いに名前を呼んだところを、もう一つの声が遮った。
楽しそうに駆け戻って来たラピスは、父と母を呼ぶ声を途中で止める。
ラピスの目に映るのは、照れたようなアキとダッシュ。
その雰囲気を、ラピスは感じ取る。
面白く無さそうに、頬を膨らませる。

「なに……してたの?」
「……少し、話をしていた」

その目に誰かと似たものを感じたアキは、怖じ気づきながらも応える。
あの視線を、どこかで感じたことがある。
つい最近、どこかの少女が・・・・・・。
ラピスが駆け寄るのを見て、ダッシュはこれ幸いと、急にラピスの前に出た。

『お父さんの悩み事を聞いてあげてたんですよ。ラピスは何してたんですか?』
「あ、うん……えと」

ダッシュの問いに、あたふたとするラピス。
少し、本当に少し、ダッシュをアキは尊敬した。
ラピスは少しして、アキの前に何かを突き出す。

「かにかま、つかまえた」


……………。


少しの間、アキの思考は停止した。

「……そうか……かにかま、か」
「うん。かにかま」

アキの記憶する限り、海に『かにかま』なる物はない。
泳いでないし、そもそも生き物じゃない。
スーパーにでも行かないと、捕まえるのは無理だ。
だからといって頭ごなしに否定するのは、良くない。
勘違いということもある。
何より、ラピスの自信満々尚且つ何かを期待した視線を向けられている以上、アキには否定できない。
少し顔を背け、小さな声でダッシュに声をかける。

「……何を、持ってきた?」
『蟹……ですね』

なるほど。
アキは納得しながら納得のいかないものを感じ、ラピスに一度顔を向けた後、またダッシュに耳打ちする。

「……かにかま?」
『わ、私に聞かれても。まだ知らないことも多いでしょうし、ラピスの勘違いでは? 』

それもそうか、とアキは改めてラピスに向けて顔を合わせると、頭を撫でる。
ラピスは、よく褒められたがる。
何故か、最近ではアキのすること成すことを代わりにやろうとする。
アキの大きな手に、ラピスは満足げに甘んじて撫でられた。

「ラピス……言いにくいんだが、これはかにかまじゃなくて蟹だぞ?」
「……? しっているよ?」

撫でられながら、きょとんとしてラピスは首を傾げる。
アキもまた、ラピスの言うことに首を傾げた。

「なら、何でかにかまなんだ?」
「おかあさんが、かにからかにかまできるっておしえてくれた」

アキの隣を指差すラピス。
本当に疑いもなく、鵜呑みという言葉の意味も知らないままに。
「なるほどな」とアキは呟くと、ラピスに変なことを吹き込んだ犯人をギロリと睨んだ。
ちょっとでも遠くに行こうとしたのか、ダッシュはアキから距離をとっていた。

「どうなんだ?」
『……ど、どうでしょう? そう言えばそんなことを教えたような……』

上擦った声で言い訳するダッシュ。
面白がって変なことを教えた前歴は、まだまだ有りそうだ。
さっきの会話を思い出す。
本当に頼っていいのか、アキは一抹の不安を感じずにはいられたかった。









『……寝ちゃいましたね』

小さな声でアキに呟いた。
色々あって疲れたのだろう。
ラピスは元通り、砂浜に駆けていく前の状態で、胡座をかいたアキの上に体を預けすやすやと寝息を立てている。
ダッシュはラピスを包み込むような表情で見つめる。
ラピスがダッシュを母と呼び、アキを父と呼ぶ。
仮初めの呼び名。
偽りの呼び名。
それでもラピスが満足しているなら、アキも満足である筈だと、ダッシュは思う。

『私たちは生まれ変わったとします』

ダッシュが自分自身で言った言葉。
アキに礼を言われた時に返したのは、ひとえにこれが理由。
生まれ変わって尚、また再開できたことに。
また、共に戦うことを許してくれることに。
ありがとう。
お礼を言う。
アキが戦うのは、使命感からでも義務感からでもなく、最初からアキ自身のためだった。
復讐も、ナデシコに乗ったのも、ホシノ・ルリのために行動したのも、ラピスのために行動したのも。
みんなアキの『わがまま』であり、『誰かのため』である。
復讐なんて、極めつけ。
恨みや私怨で動くのが復讐なら、アキはただ囚われた姫と愛しい家族を守っただけだ。
自身の感覚のことなど、初めから無いものと割り切っていたのだから。


そんな人間の『わがまま』が、果たして他人の概念から見た『我が儘』足り得るだろうか。
否。
誰が応と答えようとも、ダッシュは否だと理解している。
素直になれない、誰よりも優しい自らの主を。

「……暗く、なって来たな」

アキの言葉に、ダッシュは辺りを見る。
陽も沈みかけ、薄明るい。
こうも世界中を飛び回れるアキでも、時間はとても気にする。
ラピスが来てからは、特に。
寝る子は育つ、だそうだ。
過保護だと言われても、仕方がない。
ホシノ・ルリに対しても、同じように必要以上に気をかけていたのだろう。
でなければ、ダッシュと再開してから数日を『泣かせた』件であんなに落ち込んだりはしない。

「……ダッシュ」
『何でしょう、マスター?』

ダッシュが返事をしてアキを見ると、アキはラピスを起こさないようにお姫様だっこして立ち上がっていた。
心なしか手慣れているように見えるのは、ダッシュの気のせいだろうか。

「俺を……止めないのか?」
『ユーチャリスに戻ってラピスを寝かせるだけでしょう?』

本当に、回りくどい人だ。
皮肉屋でもある。
ダッシュは呆れて応えた。

「お前はまだ、ラピスと居たいか?」
『望むなら永遠に……と言いたとこですけど、地球でのお仕事が終わるまでは共に在りたいと、私は願います』
「……なら、そうするか」

意外にあっさり。
肩肘張らないで。
意識しているのだろうか。
ダッシュの言葉は、ちゃんと届いていたのだろうか。
素直な時は本当に素直なのだけれとなぁ、とダッシュは苦笑した。

『ええ、そうしましょう』

アキはダッシュに頷くと、対人用フィールドを展開し始める。
ボソンジャンプ。
宇宙と地球を繋ぐ、アキの唯一の移動手段。

「今日は、どこだ?」
『クリムゾンの実験施設です。座標は帰ってから直接私に繋いで確認して下さい』
「了解した……とんぼ返りになりそうだな」

とんぼ返り。
ラピスを寝かせたらすぐ地球に戻るつもりだろう。
ダッシュはアキの行為を窘める。

『ボソンジャンプには間をあけてください。ただでさえ、施設内でマスターは多用するんですから』
「しかし、出来る限り早くしないと……」
『……マスター、何か言いましたか?』
「……わかった。休憩するから落ち着け」

油断すると、すぐこれだ。
満点笑顔と絶妙な間を駆使してアキを黙らせたダッシュは、返事を確認して満足する。
今日も、標的は見つからないといい。
無論、見つかった方がいいのだけれど、見つかったらラピスとはお別れ。
非常に微妙な問題だ。

「目標……ユーチャリス……」
『了解。精神状態、座標共に安定』

標的の名前は、ヤマサキ・ヨシオ。
最悪、この世界で殺さなければならない人間の一人だ。
これに関しては、ダッシュもアキも納得している。
被害を生む。
不幸を生む。
戦いを生む。
それだけの、人間だ。

「……ジャンプ」

淡い光が、アキとラピスを包んで、虚空に消え去った。






ちなみに、かにかまは蒲鉾であるため、原材料は蟹ではない。
ラピスはそれを学ぶと同時に、また父に誤魔化された事実に気づくのだった。