今日は何処へ行くのだろう。
明日は何処へ行くのだろう。
見たことのない場所には、新しい世界という意味も含まれている。
今、自分が見て理解している世界が、その人物にとっての世界の『全て』。
ならば、視野を広めるということは、それだけ自分の世界を広げるということ。
それは沢山学ぶことや、より多くを知ることに繋がり、必ず自分の将来を助ける。
らしい。
少女、ラピス・ラズリは歩みを進めながら、昨日母が噛み砕いて教えてくれたことを取り込んでいく。
哲学的な面での話と付け加えていたが、ラピスには半分程しか理解できていない。
視野や世界と言われても、ラピスにとって新しい物を見るというのは、それ自体に価値がある。
綺麗なものを綺麗と、見たいものを見たいと。
それは、ダッシュにはないかも知れない、幼いラピスの純粋さの表れ。
特に狭く暗い研究室で人生の大半を送っていたラピスにとって、広い場所や、走って回れる場所というのは新鮮でならなかった。
見たことのない風景。
少し年寄りの考えにも似ているが、父に連れられて街や自然を巡る散歩や、母に見せもらう映像データがラピスにとってはこの上ない楽しみである。
忘れてはならない大切なことは、やはり両親。
何事も、独りでは寂しい。
日常にしても、如何なる場合でも、一緒にいてくれる人がいることは、とても大切な事だと、幼いながらもラピスは思う。
それをラピスに実感させるのは、家族の存在。
ラピスが両親に出逢って一月程、その日からラピスの生活サイクルは一変した。
一日中瓶に詰められていたような毎日、今はこうしておとうさんと一緒にお買い物。
「おつかいは、もう少し大きくなってから」との言葉は、残念ではあるがラピスがアキに言われた一言。
随分前に、ラピスは一人でおつかいにいった。
結果、エラいことに。
買うものは買えた上に、お店にも一人で行けたし、注文も一人で出来た。
母にも、頼らなかったのに。
ちゃんと、全部できたのに。
失敗した訳ではないのにと、ラピス自身、あのヘンな頭の男の存在を許すことはできなかった。
もう少しで、褒められた筈だったのに。
あとちょっとで、褒めてもらえたのに。
考えただけで、面白くなかった。
ラピスは顔をふるふると振って、アキの更に近く駆け寄る。
今日のラピスは髪を束ねていない。
その代わりに、頭にはラピスの父に貰った麦藁帽子。
ピンク色のリボン付きの、お気に入り。
店内なので、帽子は胸に抱えて持つ。
直射日光を防ぐためのものらしいが、ラピスは日差しの強くない日でも大事に使っている。
アキから貰った物。
これは、大事な物だ。
そう思い、ラピスは少しだけ力を込めて、ぎゅっと麦藁帽子を抱いた。
ラピスが父に駆け寄ると、アキは何やら困ったように一人の男と話していた。
ラピスが母に教えてもらった事と照らし合わせると、男はどうも警察官という職業の人間。
「誘拐」とか「不審者」とかと言う単語が聴こえてくるが、ラピスの目には警察官がアキをいじめているようにしか写らなかった。
それに、結構頻繁にこういう事があるため、ラピスも何をどうすれば良いか分かっている。
ととっ、と軽快にアキに駆け寄ると、真っ黒マントの端を握って、ラピスは警察官を見上げる。
「……おとうさん」
一言呟くと、アキも警察官もラピスに目を丸くする。
べー、と舌を突き出してやりたかったが、それは随分前にアキに止められていたので断念した。
そのあとそれを教えてくれた母がアキに説教されていたのが、ラピスにとって印象的である。
不機嫌丸出しなラピスに焦るアキとは違い、警察官は冷静さを取り戻して、ラピスに話し掛けようとしてきた。
「ええと、君の……」
「おとうさん、なのっ」
ラピスの二言目で、いつも警察官は撤収する。
もちろんアキに謝罪してから。
いつも、こう。
職務質問と言うらしいが、たまにラピスがアキから離れて歩いていると良くされることがある。
だからこうして、ラピスはアキの側に寄ってマントの端を握る。
手を繋いでくれる場合は、ラピスが手を差し出した時。
思い出されるのは『公僕ですと、私はちょっと……』と、しゅんとしていた母。
それもこれも、アキがラピスを娘だと主張してくれないのに問題がある。
ラピスはアキを「おとうさん」と呼ぶ。
親愛を込めて、そう呼ぶ。
しかしアキは、ラピスがアキを父だと主張すると、困った表情を濃くするのだ。
「……いや?」
「ん?」
ラピスが不安げな表情でアキに問う。
首を傾げるアキ。
表情を余り変えない代わりに、アキは首を傾げたりと態度で何を考えているか分かることがある。
アキも、同じ。
口数の少ないラピスの言っていること、ラピスが何をしたいか、お互いを読み取ることに関しては、アキは母に負けない筈だ。
アキはしゃがみ込むと、ラピスに視線を合わせる。
「父親は……柄じゃない」
「がら……?」
「似合ってない、ということだ」
ちゃんと、アキは分かってくれる。
ラピスが疑問に思うことも、不安に思うことも。
言葉が足りなくても、心が通っているから。
模倣した、見本を真似た偽りの家族じゃない。
母も父も、何の繋がりもないなんて、絶対に言われたくない。
だから、ラピスはアキを呼ぶ。
「おとう……さん」
言葉と一緒に、一歩前に出て、抱きついた。
アキは驚いたようにしていたが、ラピスの様子を確かめると、そのまま抱き上げる。
ラピスを抱っこしたまま、アキは歩き出し、話だす。
「俺は、家族を守れたことがない」
「……かぞく?」
「怖いんだ。大事な者を失うことが」
「おとうさんも、こわいの?」
ラピスの問いに、アキは黙って頷いた。
守れなかった。
ラピスは、失ったことはない。
大事だと、無くなるのが怖いと思えるものを得たのは、これが初めてだから。
今、ラピスが二人を失ったら、ラピスは本当に空っぽになってしまうだろう。
それと同じくらい、アキも自分を大事に思ってくれるのだろうかとラピスは思い、同時にアキの言うこと知る。
ラピスは、アキの気持ちを、僅かながらに理解して、その身をアキに寄せた。
「……いなくならない」
「ん?」
「いなく……ならないよ」
アキは、一度失ったんだ。
大切な人を、大事な人を。
それは一度かも知れないし、二度かも知れないし、何度も、かも知れない。
ラピスは、アキにしっかりとしがみつく。
アキがラピスにしてくれることを思い出して、アキが怖くなくなるように。
不安が、無くなるように。
ラピスがゆっくりと顔を上げ、アキを確認すると、アキは顔にうっすらと笑みを浮かべていた。
「……ありがとう」
「ううん。いい」
はて、とラピスが今後は首を傾げた。
どっちが、不安だったのだろう。
アキに父親であって欲しいラピスに、ラピスを受け入れようとしてくれているアキ。
どっちも不安だった。
なら、どっちでもいい。
ラピスはゆらゆらとテンポ良く揺れるアキの歩みに、段々と眠たさを覚えてくる。
「父親、か。……こういう時ばかりは、ダッシュが羨ましい」
ダッシュは、ラピスの母親。
母を羨ましいとは、どういうことだろうと思い、ラピスは顔を上げる。
「おかあさん?」
「たまに……あいつみたいに楽観的になりたくなる」
「内緒だぞ?」と最後に付け加えたアキに、ラピスはコクリと頷き、またへたりとアキに寄りかかった。
内緒。
何だかわからないが、嬉しい。
アキとダッシュは良く喧嘩しているけれども、それが何だか羨ましいと思う時が、ラピスにはあった。
自分の知らないことを二人が話す時、二人だけに通じる何かを見つけた時、少し、寂しくなる。
だから、アキとこうして二人でいる時も、ダッシュと二人で勉強している時も、ラピスには幸せな時間であった。
「おかあさん、たのしそう」
「……頼むから、ああはなるな」
また、コクリと頷いた。
アキの表情は嫌に真剣で、それでいて絶望の入り交じったような、まるで苦虫を噛んだようだった。
そんな顔をされて「おかあさん、かっこいい」とか、「なんで?」とも言える筈もなく、ラピスはコクコクと頷くしかない。
アキの様子に、ラピスはふと思う。、
「おとうさん……おかあさん、きらい?」
「む……」
ラピスの問いに、アキは言葉を詰まらせた。
嫌い、なのだろうか。
それは、あまり良くない。
ラピスは、またアキに問い掛ける。
「きらい?」
「そんな……ことは、ない」
言葉を一つ一つ区切りながら、ひどく言いにくい様子で、アキはラピスに答えた。
何だか、無理やり言っているように見える。
ちょっと、不満。
家族三人、仲がいい方が良いに決まっている。
喧嘩ばかりしているアキとダッシュだけれども、仲良く三人でいた方が、良い。
ラピスは、また口を開く。
「なら……すき?」
「ぐっ……」
好き、とは好意を抱いているかと言うこと。
ラピスの問い掛けに、アキは困ったように顔をラピスから背け、「くっ……」や「ぐぅ……」などと唸っている。
やっぱり、嫌いなのだろうか。
もしそうなら、どうしよう。
もし、ダッシュとアキが、互いに通じ合えないでいるのなら、どうしよう。
ラピスが一人先走って、表情が不安げな、泣きそうなものに変わると、アキは更に慌ててラピスの方に顔を向けた。
「待て。……ダッシュは、嫌い、じゃ、ないぞ」
アキの返答に、ラピスはまた不安の色を濃くして、ぎゅっとアキにすがりつく。
嫌いじゃないと言うのは、好きでもないのだろうか。
やだ。
そんなのやだ。
ラピスの目尻に涙が溜まり、今にも零れそうになり、上目遣いでアキを見上げると、アキも何故か青い顔で額から汗を流していた。
「ぁ……う……」
「いや、待て。違う。ダッシュは……」
「おかあさん、は……?」
アキは、顔色をますます悪くして、頭を押さえたいのか、ラピスを抱えている腕がもぞもぞ動いていた。
母は?
ラピスは、父の言葉を、辛抱強く待つ。
やがて、アキの口が開いた。
「――好き……だな」
何故かまだ納得がいかないような父の表情はひとまず置いておいて、ラピスはアキの言葉に安堵の表情を浮かべる。
よかった。
素直に嬉しくて、いつも表情の変化があまりない顔には、自然と笑みが浮かぶ。
アキは、頑なにラピスの方を見てはくれなかったが。
「か、買い物も終わった。そろそろ帰るぞ」
「うんっ!」
アキが言い淀むのは、とても珍しい。
ラピスは、唐突に理解する。
父が「嫌いじゃない」と言っていたのは、恥ずかしかったんじゃないだろうか。
本当は、二人はずっと仲が良くて、今更言うのが恥ずかしかったんじゃないだろうか。
だったら、ちょっと、うらやましい。
ラピスはそう思って思考をやめて、アキにだっこされたまま付いていく。
アキは照れ隠しなのか若干早足だったが、動きを止めなければいけないできごとが起こったのは、その時だった。
『……あの、その、マスター?』
唐突に、アキの足が止まり、ラピスはアキの肩から顔を出して後ろを見る。
人通りのない路地に、一枚の立体映像。
確認するまでもなく、ラピスの母、ダッシュの姿。
何やら、映像の中でそっぽを向いて、顔を赤らめているようで、どうもぎこちない。
アキを見てみると、いつも通りの無表情だが、青かったり赤かったりしている。
何故だろう。
ラピスは父と母を交互に見比べて、少し、腹が立った。
『あのっ、ですね。もう夕方ですから、早く帰って来てください、って言おうとしたんですけど……それだけ、なんですけど』
ダッシュは、アキとラピスを見ようとはせず、声は途切れ途切れ、アキは決して振り向こうとしない。
ウィンドウの中の母は、いつもと変わる笑顔や怒った顔とは違って、真っ赤。
人の顔は表情だけではなく、色も変わることを、今日ラピスは学んだ。
どもりながらダッシュがぶつぶつ呟いていると、アキはやっとのことで口を開く。
「……ダッシュ」
『は、はいっ! な、何でしょうか、マスターっ!?』
「何も……聴いてないな?」
アキの問いかけに、ダッシュは顔をますます赤くすると、今までの複雑そうな表情をガラッと変えて、にへらっと笑顔になる。
なんだろう。
このかんじ。
無表情のアキ、笑顔のダッシュ、眉間に皺が寄っているラピス。
父と母が仲良くなればいいとは思ったが、実際見てみるとラピスの中に相反する気持ちが生まれてくる。
ダッシュの応えを待つアキは緊迫した面持ちで、ラピスはラピスでふてくされたように父の胸板に顔をうずめることにした。
結局、しっかり三十秒経ってからダッシュが発した言葉は――。
『あの……私も、私もマスターが大好きですーっ!』
と叫んで、ウィンドウは虚空へ消えていった。
ああ、なんだろう。
ほんとうに、このかんじょうは。
ラピスは眉間の皺をますます深くして、アキは「何故こんなことになった……」と悪態吐いて、ラピスの目元を覆う。
あとは、いつも浮遊感が襲ってくるだけ。
理解してラピスは身を委ね、路地から二人は消えていく。
ラピスが父親と母親の関係に『むかつく』と言う感情を抱くのは、遠い未来のことではないだろう。
今日一日の各消耗品のストック、武器弾薬無人兵器の残量など、艦内の雑務計算の結果を出すことが、ダッシュの一日の最後の職務である。
近況を綴ると、『こちら』に来てからは激しい戦闘はないため、奪った資材で無人兵器及び外部装甲の修繕や、細かな艦内の整備を行っていたのだ。
戦艦であるため、ダッシュの本職は戦うこと。
アキが戦わなくて済むのは嬉しいことだが、少々物足りなく感じていたりするのは根底にあるプログラムのせいだろうか。
最近ではラピスの『勉強』のために、やたらセキュリティーの高いところにハッキングして見たり、一般常識を教えたりと、なかなか充実している。
ラピスはある程度聞くことを聞けば、あとは自分で未知を開拓していく。
覚えが早く、一聞いて十を知る、所謂ホシノ・ルリ同様の天才肌なのである。
母と娘の良い関係を保ち、和気藹々と和やかに日々を送っていたのだが……。
『……なぁんで、怒ってるんですかねぇ』
今日のラピスは、ひどく仏頂面だった。
お冠の様子で「べんきょう……したくない」などと言われたのは初めてのことである。
説得しようと近づいても、「やー」と可愛く拒絶して、始終アキにベタベタとくっ付いていた。
『……困ったもんですねぇ』
続けて『これが、反抗期ですか』と独り呟いたあと、ラピスのことはアキに頼むように考えて、ダッシュは「趣味の時間」に勤しむことにする。
記憶を辿り、再生する。
思い出されるのは、今日、主の言葉。
――好き……だな。
再生された言葉に、ダッシュは安らぎを感じる。
だから、何度も、何度も、再生した。
アキの声がブリッジに何度も、何度も、何度も何度も何度も流れる。
その度に、ダッシュは『えへ、えへへ〜』と表情を崩して笑った。
他者が居ないのは、確認済み。
寧ろ今は深夜だ。
誰も起きないのを良いことに、起きないからこそ、こんなことをして幸せに浸っている自分を、恥ずかしく思わない訳ではない。
恥ずかしいけれど、幸せなのだ。
幸せで、温かいのだ。
『マスター……大好きですよ』
ブリッジで独り、呟いて、また笑う。
通算五十二度目の再生が終わって、『まるで変態さんですね』と零して、五十三度目の再生。
こんなに幸せなら変態でもいいか、と良くない考えがよぎり『こ、こほん』と赤面し咳払いする。
今日は、アキは普通に眠っている筈だ。
何故だろう。
今日は、熱が冷めない。
アキの寝顔でも見ながら、長い夜の暇を潰そう。
アキの部屋をモニターに映す。
そこには、空のベッドが映っている。
『あれぇ……抜け出しましたか?』
カメラを切り替えて、アキの姿を探すと、その姿は、意外なところにあった。
だから、こっそりと、アキの後ろにウィンドウを映した。
『……マスター?』
声を掛けると、アキはビクッと体を揺らして、バッと勢い良く振り向いてくる。
あの時も、このくらい早く振り向いて欲しかった。
――好き……だな。
もちろん、この時である。
「ダ、ダッシュか?」
『何してるんですか……厨房で』
ユーチャリの厨房は、あまり使われた試しがない。
何度かは使われたが、アキが治らない味覚に苦悩の表情を見せ始めてからは、それっきり。
だから、ここは殆ど使われたことがない。
アキは必死に後ろを隠そうとしていたが、しばらくダッシュからの視線を遮ると、諦めたように「いや、何でもない」と言って厨房から逃げるように出て行った。
止めようとしたが、すでに姿はない。
『あー、……あー』
最初の『あー』は驚きで、最後の『あー』は納得。
何をしていたのだろうと、アキの隠していた場所をみると、しっちゃかめっちゃかになった水回りや中華鍋。
必死に、料理をしようとした痕跡だった。
ダッシュにでも手伝って貰えば、ある程度はなんとかなったかも知れないのに。
何年振りかも、分からないのに。
『……強情、なんですよね。独りで、やってみて駄目じゃないと、助けは頼みませんか』
そう言うところが心配で、そう言うところが大好きなんだと、ダッシュは思う。
明日にでも、頼んでくれたらいいのだけれど。
ダッシュはそう思い、うっすらと微笑んで、主が出て行った扉を見つめるのだった。