パチッと、大きな瞳を見開いた。
目を覚ます。
同時に、違和感。
本当に自分は目を覚ましたのだろうかと、ラピス・ラズリは考える。
起きて一番に目に入る光景がブリッジ。
少なくとも、ユーチャリスのブリッジで立ったまま眠った覚えはない。
キョロキョロと辺りを見回した後、更なる違和感を感じ取る。
どこか、違う。
何もかもがラピスの知っている光景なのに、決定的に何かが違う。
ダッシュが、いない。
アキが、いない。
この場所で、この空間で孤独を感じた事は、初めてかも知れない。
アキが居なくても、ダッシュが話し相手になってくれる。
毎晩アキが出かけていくのを見送った後に、こっそり起きて来て帰りを待って、ダッシュに窘められ、結局一緒にお話して。
そう言えば、昨日は何時眠ってしまったのだろう。
眠らなければ、起きることはできない。
ロン毛の男から逃げて、アキと一緒に海に行って、どうやったか問い詰めて、ちっちゃい蟹を捕まえて、アキに言われて逃がしてあげて……。
何時、帰ってきたのだろう。
何処で、眠ったのだろう。
不明。
記憶にない。
記憶にないなら、わからない。
考えてわからないことなら、聞いてみよう。
ラピスは改めてダッシュを呼ぼうと口を開き、途中でやめた。

「あ」

声が漏れ、気が付く。

床に、足が着いていない。

驚いて足を動かすと、バタ足でもするかのように上へ、上へ。
手をばたつかせると、上下左右に舵がとれる。

「……ういてる」

まるで無重力。
慣れない動きで、床に着地するように努力するも、途中で力尽きる。
ラピスの体力は、先天的に期待できないのだそうだ。
もがいてもがいて何とか上を向いた状態を維持したところで、ラピスは気づいた。
これは、存外に楽しい。
なんといっても浮いているのだ。
アキでも、こんなことは出来ないかも知れない。

「……ううん」

できる。
多分、できる。
ラピスは首をふるふると振って、尊敬する父の浮遊する姿に思いを馳せた。
前向き思考はダッシュに、天然な部分はアキに似てしまったラピスは、ふよふよと浮遊しながらブリッジを遊泳する。
ダッシュも、留守のようだ。
ダッシュは前に自分はユーチャリスの守神だと言っていた。
守神が、留守にしてていいのだろうか。
今ラピスがしている行動も、もしダッシュに見られたら止められているんだろうなぁ、とラピスが考えた時だった。

『ラピス、おかえりなさい』

ビクッと身を固め、ラピスはその場で静止する。
びっくりした。
心臓が止まるかと思った。
ラピスはひとまず謝ろうとダッシュを捜すが、ブリッジ内にダッシュの姿は見つからない。
ウィンドウが、見当たらない。
四苦八苦しながらも、ラピスは一度床に降り立つ。

『マスターは、どうしました?』
「先に寝る、そう言ってた」
『もう……』

今度こそ、本当にラピスの心臓は止まる所だった。
第三者の声。
アキでも、ダッシュでもない。
無論、ラピスは喋っていない。
声は、背後から。
ダッシュと親しげに会話をしている。
ラピスが恐る恐る振り向くが、目の前に立っている人物を、初めて理解することが出来なかった。
わたしだ。
違う。
おかあさんだ。
違う。
二重の否定を更に二度繰り返して、ラピスは結論に辿り着く。
目の前の少女は、ラピスでもダッシュでもない。
薄桃色の髪も、琥珀色の瞳も同じ。
幼さを残した顔立ちも同じ。
ラピスには少しブカブカなパジャマも同じ、しかも向こうはぴったりだ。
ラピスよりは年上、ダッシュよりは年下。
ラピス・ラズリととても良く似た少女は、ラピスを無視するかのように横切ると、ブリッジの中央に移動する。

「私も寝る。おやすみ」
『はい。おやすみなさい、ラピス。あ、マスターの布団に行ったらダメですよ?』
「……うん、善処する」

ダッシュは、ラピスではない少女と会話している。
何の違和感もなく。
ラピスという存在に全く気付かずに。
忘れてしまったのだろうか。
楽しげに会話する二人の声を聴きながら、自らの居場所を失ったような不安を覚えながら、『アキの布団〜』のくだりにはしっかり反応してラピスは苛立ちを覚え少女を睨みつけた。
ラピスもまだ入ったこともないのに、何処の誰とも知らない偽物にさせる訳にはいかない。
暖簾に腕押し。
少女もダッシュも、ラピスに気付く様子はない。
いつもと違い、少しだけ母の問答は機械的で、誰か別な人のように――。

『そんな言葉、どこで覚えて来るんですか……エリナですね。まったく、あの人は……』
「……ダッシュが曖昧な表現をしたい時に使いなさいって」
『さ、よい子は眠る時間ですよ? 善処、良い言葉ですね』


…………良かった、いつもの母だ。


ラピスは一抹の不安を消し去ると、ブリッジを出ていく少女を見る。
少女はダッシュの言葉に表情一つ変えない。
冷たい、人形のような表情。
多少の柔らかさ、固さはあっても、無表情は変わらない。
違う。
他の表情の作り方を知らないんだ。
こんな表情の、少女のような存在をラピスは知っている。
沢山の試験管の仲間達。
マシンチャイルド。
辛く苦しい研究所。
いや、辛く苦しいのかも分からなかったあの場所から出て、他の個体は今どうしているだろうか。
ラピスのように、『楽しさ』を理解できているだろうか。
ラピスが考えを巡らしていると、いつの間にか、ブリッジを出ていこうとしていた少女が、こちらを向いているのに気付く。
ダッシュのウィンドウは、何故か無い。
つまり、ラピスが見えているのだろう。

「一緒に、来る?」

少女の口から発せられた言葉は、間違いなくラピスに向けられた物。
ここに居ても仕方がない。
ダッシュは気付いてくれないし、アキはもう眠ったのだろう。
ラピスはコクンと頷いて、少女に付いていこうとするも、ふわついて前に進めない。

それを見ていた少女が、クスッと笑った。

ラピスは、驚く。
ラピス自身、また上手く笑えない。
無自覚に笑うことはダッシュが確認済みだが、ラピスはそのことを知らない。
自分の顔で、自分の笑顔を見せられる。
ラピスは変な感じを覚えつつ、ジタバタしていると、少女が寄ってきてラピスの手を取った。

「ラピス・ラズリは、笑えないと思った? 私は笑えるよ……今は、ね」

少女に手を引かれ、ラピスは釈然としない顔でゆらゆら引っ張られていく。
何か、へん。
ダッシュと話していた時と、少女の雰囲気が変わった気がする。
話し方も、ラピスはこんな話し方じゃない。
重さを感じないのか、てくてくと歩いていく少女を見つめて、ラピスは結論を出した。


やっぱり、偽物だ。









連れてこられた場所は、ラピスの部屋。
ベッドに、IFS端末に、くまのぬいぐるみ。
最近教えてもらったことだけれど、あのでっかい長方形の木の箱は洋服箪笥らしい。
全部ラピスの服が入っていたのを覚えている。
不思議な顔をして「なんで?」と問い掛けても、ダッシュは苦笑してはぐらかすだけだった。

「初めまして、ラピス・ラズリ」

声にハッとして、ラピスは顔を向ける。
ラピスをここまで連れて来た少女は、ベッドの端に腰掛けて浮遊しているラピスを見上げていた。
何だろう。
怖い。
ラピスを見る目が、怖い。
いや、ラピスがもう一人のラピスに怯えているだけなのかもしれない。
ラピスは、勇気を出して口を開く。

「だれ?」
「ラピス・ラズリ」
「……ちがう」
「違わないよ。私はラピス・ラズリじゃない?」
「ううん。ラピス・ラズリ」

おかしいのは分かっていても、あれはラピス・ラズリ。
自分と同じ、ラピス・ラズリ。
認めたくなくても、分かるのだから仕方がない。
立ち上がった『ラピス・ラズリ』は、またラピスに近づくと、上手く動けないラピスの手を引いてベッドに座らせると、自分もその隣に座る。
「大丈夫? 気持ち悪くない?」なんて言って心配までしてくる始末。
ぜんぶ、へんなの。
そこで、ラピスは自分の置かれている状況に気が付く。
夢。
当たり前だ。
二人のラピス・ラズリ。
もう一人の大きな自分。
ラピスを無視するダッシュ。
有り得ない。
夢と呼ばれるものを、ラピスは初めて見ることができた。

「ラピスは……今、幸せ?」

『ラピス・ラズリ』が聞いてくる。
幸せ。
幸せってどんな状態を言うのだろうと、ラパスは考える。
定義が無くてラピスが決めていいものなら、アキとダッシュとラピスの三人でいる今が、ラピスにとって幸せ。

「うん。しあわせ」
「そう……良かった」

ニコッと笑って、少女はラピスに微笑んでいた。
笑えている。
その顔は笑えているのに、あまり嬉しそうじゃない。
ラピスは首を傾げて問いかける。

「おねえさん……は?」
「お姉さんって、私?」
「うん」
「そうだね、ラピスが二人じゃ紛らわしいし……じゃあ、私がラピスのお姉ちゃんでいい?」
「うん。いいよ」

お姉ちゃんは、ラピスの中には無い存在。
お父さんも、お母さんも、ラピスにはとても温かい存在だった。
お姉ちゃんも、きっと温かいものなのだろう。
ラピスの体が、ぐっと引き寄せられる。
少女がラピスの手を引いて、一回り小さいラピスの体を抱きかかえるようにギュッと押さえていた。

「お、おねえちゃん?」
「私は……今はちょっと幸せじゃないんだ」

悲しそうな声が、ラピスの背中から聞こえた。
おでこをラピスの後頭部にコツンとして、小さな声で、泣きそうな声でラピスに語りかけている。

「……どうして?」
「どうしてだろう、私は、そっちに行けなかった……からかな」
「いけなかった?」
「うん…………はい、私の話はおしまいっ! ラピスの幸せ、聴かせてくれる?」
「え、あ、え、え……っと」

さらにギゥッとラピスを抱き締めて、耳元で囁かれる。
さっきの悲しげな雰囲気は何処にいったのか、急に明るく振る舞って来る少女に、ラピスは戸惑う。
もう一人のラピスに、不信感なんか最早ラピスは持っていなかった。
夢でもいい。
姉が居たら、こんな風に会話してギュッとして貰って、一緒に居られるのだろうか。
とにかく答えないと、「こちょこちょしちゃうぞ〜」なんて言ってる後ろの人物に何をされるか分かったものじゃない。

「あのね……おとうさんと、おかあさんが……」

話し始める。
父と母に助けられて、一緒に過ごして、色んな事を教えられて。
そんなに多く話す出来事はない。
ラピスが感じた事、ラピスが思った事、ラピスが今どんな気持ちであるかを、一つ一つ少女に伝える。
毎日ぼんやりと母と会話するのが日課であることや、父にお風呂に入れて貰うこと、寝るまでそばに居て手を握っていてくれること、朝は起こして貰ってちゃんと目が覚めるまでの間に髪をとかして貰って、そう言えば最近、父の膝の上で眠ったことがあるような……まで話したところで、何故かラピスを抱き締める手の力が強くなって来たので止めることにした。
寒気のような物を感じる。
顔が見えないのに「ふふふふふ」とかはやめてほしいとラピスは思いながら、手を緩めて貰う。

「……いたい」
「あ、ごめん……そっか、ラピスは幸せそうだね。なら、いっか」
「なにが?」
「ん、何でもないよ。それじゃ、そろそろ時間だから」

少女は手を解いてラピスを離す。
ふわりと舞い上がったラピスは、少女を見ると、少女は笑顔のまま、ラピスに手を振っていた。

「じかん?」
「お別れの時間。ばいばい、ラピス。楽しかったよ」

少女は、笑顔。
泣きそうな、消えそうな、悲しい笑顔。
お別れをしたら、もう会えない。
せっかく仲良くなった姉に、泣いてほしくない。
例え、それが夢の中の出来事でも。
ラピスは体を精一杯動かして、少女の手を掴んだ。

「また、あえる?」

少女は驚いたように目を見開いてから、両手でラピスを愛おしげに抱き締めた。
抱擁を、ラピスは黙って受け入れる。

「どうかな……ラピスが……呼んでくれたら、あえるかもね」

返って来た声は掠れていて、少女の体は小刻みに震えていた。
不安、なのだろうか。
離れてしまうのが。
もう一度会えるのかが。
少女がラピスを抱き締めるてくれたように、ラピスも少女が安心できるように抱き締める。
アキにこうしてもらうと、とても安心できるのをラピスは知っている。
少女は、知らないのだろうか。
知らないなら、自分は代わりになれるだろうか。
ラピスは頬を寄せ合い、小さな力で『ラピス』を抱き締めた。

「よぶ。ぜったい」
「……いいの? 今度は私、ラピスに悪いこと…………するかもよ? ラピスのいる場所、羨ましくて……う、ぅ………ラ、ラピスの代わりになりたくて」

もう、泣いてしまっているのかも知れない。
震えながら言葉を続ける少女を、ラピスはとても愛おしく感じていた。
ラピス・ラズリは、自分であり、この少女。
これが今、ラピスの認識の中にはあった。
自己愛でも家族愛でも無く、ただ、抱き締めていたい。
安心させてあげたい。
もっと一緒にいてあげたい。
もっと一緒に、あるべきだ。
ラピスは耳元で呟き返す。

「なかないで……おねえちゃん」
「泣いてない、よぉ……私は、ラピスのお姉ちゃん……なん、だから」

意地っ張りなのか、頑固なのか。
何故か、姉のそんなところがアキに似ているとラピスは思った。
ふと、ラピスは自分の体を見る。
段々向こう側が透けて、薄くなっていた。
意識も希薄になって、抱き締めている感覚も抜けていく。
まだ、伝えてきっていないことがある。
少女の耳元に、ラピスは口を寄せた。

「ま……た、ね」
「……うん。ラピスも……ちゃんと『お父さん』にお礼言わないと、ダメだよ……海、連れてってもらったんでしょ?」

ラピスは少女の言葉に思い出す。

『海、連れてって』

前に、寝る前にアキに頼んだのだ。
今の今まで、思い出せないでいたこと。
アキは、ずっと覚えていてラピスを海に連れていってくれた。
嬉しい。
そして、疑問。
思い出すと同時に、何故少女が知っているのか、気になった。
少女がラピスなら、知っていて当然かも知れないけれど、それならラピスの口から父や母について聴く必要はなかった筈だ。
いいか。
お互いがラピス・ラズリという存在なのだから、それでいい。
僅かな疑問を抱き、奇妙な回答を得ると、ラピスは意識を閉じる。
ゆっくりラピスの体は消え去ると同時に、少女の体も離れ、その場から消え去った。
何も、残らない。
あとには部屋も、人も居なくなった、真っ暗な空間が広がっていた。








ばっ、と身を起こした。
低血圧なラピスがこんな起き方をするのは、初めてのこと。
いつもはアキな起こされ「やぁ」とか「うぅ」とか唸りながらのそのそと起きるラピス。
当然こんな起き方をすれば頭に血が回らずぐらぐらするし、起こしに来ていた人も、当然驚く。
キョロキョロと顔振って、ベッドの側にいる狼狽した様子の人物を見つける。

「な、なんだ?」

ベッドから飛び出し、アキに飛び付く。
あったかかった。
それ以上に、自分の中に大きな喪失感があった。
大切な物を置いてきてしまったような、大きな穴が空いてしまったような。
何も出来なかった自分が、悲しかった。
実際には出来ていたのかも知れないけれど、ラピスには満足がいかない。
ラピスはギュッとアキの衣服を掴むと、ベッドの高さを利用してアキの胸に顔を埋める。
海のこと、お礼言わないと。
ラピスが、今しなければいけないこと。
大切な『姉』に思い出させてもらったこと。
言わないと、言わないと。

「怖い夢でも見たのか?」

アキの問いに、ラピスは何も言えず、ただ首を振る。
察したのか、慣れているのか、アキはそれ以上何も言わずに、抱き締めてくれた。
大きな体がラピスを包む。
抱擁。
相手を安心させるための、抱擁。
ラピスは、確かに安心している。
それなのに、ますます悲しくなって、ますますアキにすり寄った。
誰かの悲しみが自分に流れ込んでいるかのように、ラピスの気分は晴れることはない。
嬉しいのに、悲しい。
酷い、矛盾。
こみ上げてくる嗚咽を時には飲み込み、時には漏らして、ラピスはアキに包まれた。
アキに背中をぽんぽんと軽く叩かれて、あやされる。
そんなことを数分もされていると、ラピスも少しずつ落ち着いてきた様子で呼吸を整えていく。

『おはようございます、ラピ…………朝から何で、泣かしてるんですか、マスター』
「…………俺か?」
「……ん、ん……う…ぅぅっ…」

アキの言葉を否定しながら、少し大きく嗚咽が漏れる。
アキはラピスが我慢しているのを分かったのか、困惑しながらも背中をさすってくれた。

「……よしよし」
『……あ、それお父さんっぽい』

何も言わない申し訳なさから、アキは困り顔で言葉を紡ぐ。
ダッシュも上手く状況を飲み込んではいないのか、アキに合わせている。
一方でラピスは涙を止められない。
泣いても、泣いても、泣き足りない。
アキもダッシュも、困っているのだろう。
ラピスは、自分でも何故泣いているのかわからないまま泣き続ける。
ラピスはそれからしばらくの間、アキの腕の中で嗚咽をこらえていた。








ダッシュはブリッジの椅子に腰掛けたラピスと対面していた。
文字通り、ラピスとダッシュのウィンドウが向かい合って、顔を見合わせている。
ラピスの顔は泣いたために、目は赤く、疲労の色も僅かに見えた。
ダッシュはウィンドウの中で形だけ嘆息する。
アキには『女の子同士の話し合い』と言って退出してもらったが、ダッシュを怪訝そうな目で見て「女の子……?」と言われた時は、ダッシュの理性もあと僅かで崩壊するところであった。
それはそれとして、ラピスに事情を聞くために二人っきりなったのだから、あんまり無言になってラピスに責められていると勘違いされてはいけない。

『どうして泣いていたのですか? マスターに悪いことされましたか?』
「おとうさんはわるくないっ!」

返答までの間は一秒に満たない。
若干、ファザコンの気が目立つようになってきた気がするのは、ダッシュの気のせいだろうか。
頬を僅か紅潮させ、膨らますラピス。
あれは割と本気で怒っている時の仕草だ。

『冗談ですよ。それで、本当に怖い夢だったのですね? どこか痛いとかでは?』
「……うん。でも、こわいのじゃない」
『どういうことでしょう?』

困ったように顔を俯けるラピスを、ダッシュは落ち着かせながら話を促す。
ラピスは、そのまま小さく呟いた。

「おねえちゃんが、いたの」
『お姉ちゃん?』
「うん」

ラピスから聞いた断片的な話を纏めると、ラピスは夢の中のユーチャリスで、自分そっくりな人物と出会い、打ち解け、姉と妹の仲になり、起きてしまったと言う訳だ。
ダッシュも情報の中にそれに類似したものがある。
夢の中で親友を作ったり、夢の中で出会った人と恋人になったり、夢の中で兄弟姉妹ができたり。
夢の中では全てが可能であり、不可能。
どんなに無限に近い時間の中で仲良くなっても、どんなに親しい間柄になっても、どんなに愛しく想っても、夢が覚めれば現実がある。
あまり覚えていない人なら、まだいいだろう。
細部まで記憶してしまった人は、それこそ家族を失ったような、身を裂かれたような喪失感に苛まれることだろう。
ラピスも、その一人。
現状に満足でなかった訳ではないようだが、初めて父を持って、母を持って、他の『家族』と言うカテゴリーに興味があったのかも知れない。
何より姉妹や兄弟など一般的ことを教えたのはダッシュだ。
アキに責任は全くない。
今すべきことは、ラピスを慰めること。
ダッシュは微笑んで、俯き気味のラピスを見る。

『……良いお姉さんでしたか?』
「うん……でも、あんまりしゃべれなかった」
『それでも、ラピスが懐いたのですから。どんなお名前でした?』

何気ないダッシュの問いにラピスは顔をあげて、再度俯いて答える。

「……ラピス・ラズリ」
『へ?』
「おねえちゃんも、ラピス・ラズリ。わたしよりおおきい、ラピス・ラズリ」

自信を持っているのか、まん丸なラピスの目はダッシュを捉えて言葉を続ける。
その言葉に、ダッシュはピクリと、反応を示す。
何か、変な感じがした。

『お姉さん、最初何かしてましたか?』
「へんなおかあさんとおはなししてた。おかあさん、こえだけだった」

声だけのダッシュを知る人間は、この世界でアキくらいだろう。
ダッシュは、続けてラピスに問う。

『……何か、聞かれました?』

何故か良く話すラピスは、ダッシュに向かい口を開く。

「しあわせか……って」
『…………そうですか。変なことを聞いてすみません。マスターに髪とかしてもらって来てください。ぐっしゃぐしゃですよ?』
「あ……ほんとだ」

余程寝相が悪いのか、ラピスの長い髪は朝は大抵こんな感じだ。
その度にアキが直しているのもまた、数年前からの日課と言える。
ダッシュはすっかり元気になって走っていくラピスを見送ると、独りブリッジで思考に耽る。
何だろう。
姉。
ラピスには、そっくりな姉がいるにはいる。
正確には、いた。
二度と会えない、確率上は再開は有り得ない。

『また見るようなら……私も何かしらの手を打たなければなりませんか』

独り呟いて、ダッシュはウィンドウを閉じた。
ネットワークを、錯綜する。
いつもいつも、ユーチャリスにはアクシデントが絶えないものだ。